小瀬村(読み)こせむら

日本歴史地名大系 「小瀬村」の解説

小瀬村
こせむら

[現在地名]甲府市小瀬町

かん村の南にあり、蛭沢ひるさわ川がほぼ南へ流れる。村域は南北三町五二間・東西一二町一三間で、このうちに三集落が形成されていた(延享二年「村明細帳」松木紀久家文書)中道なかみち往還がほぼ南北に通る。巨勢・巨瀬・古瀬・御瀬・巨世などとも書かれ、戦国期には小瀬村郷と記す史料もある。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)七月二九日条によれば、小笠原長清は承久の乱の首謀者の一人源有雅を「稲積庄小瀬村」まで護送し、北条政子の助命書が到来する前に処刑した。現在甲府商業高校の北、小瀬団地内に有雅の墓といわれる塚がある。「一蓮寺過去帳」には応安三年(一三七〇)五月二四日供養の文阿弥陀仏、永享六年(一四三四)四月二八日供養の善阿弥陀仏・金阿弥陀仏などに巨勢村、宝徳二年(一四五〇)五月二三日供養の陵阿弥陀仏などに小瀬村、延徳元年(一四八九)七月一二日供養の師阿弥陀仏に巨勢村宮内大輔、同年二月二四日供養の言一房に巨勢村乳母などの注記がある。「一本武田系図」などには甲斐守護武田信重の弟に巨勢村宮内大輔信賢(信堅とも)がみえ、前掲師阿弥陀仏は信賢であろう。宝徳年中以降信賢は当地に居館を構えたと伝え、その孫とされる巨勢民部少輔信乗は大永二年(一五二二)八月二七日、諏訪明神(現鈴宮諏訪神社)に神像を奉納した(甲斐国志)。元亀二年(一五七一)三月松尾次郎信賢(信昌四男)の跡を継いでいた武田信玄の弟松尾民部少輔信是が死亡、その遺領は弟河窪信実が継承した。同年三月一三日の武田信玄印判状(陽雲寺文書)で認められた信実所領のうちに巨瀬村郷一七〇貫が含まれている。

武田氏滅亡後の天正一〇年(一五八二)六月一七日には窪田助之丞(正勝)に本領の小瀬村郷三貫五〇〇文などが安堵され(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)、一二月九日再安堵された(「徳川家印判状写」同古文書纂)


小瀬村
おぜむら

[現在地名]関市小瀬・小瀬南おぜみなみ一―二丁目・ほしおか栄町さかえまち三―四丁目・緑町みどりまち二丁目・東福野町ひがしふくのちよう中福野町なかふくのちよう西福野町にしふくのちよう一―二丁目・北福野町きたふくのちよう一―二丁目・東大久後ひがしおおくご西大久後にしおおくご山王通さんのうどおり一―二丁目・大久後おおくご南大久後みなみおおくご清蔵寺せいぞうじ雄飛ゆうひおか十三塚町じゆうさんづかちよう東十三塚町ひがしじゆうさんづかちよう十三塚北じゆうさんづかきた十三塚南じゆうさんづかみなみ新田しんでん西仙房さいせんぼうみどりおか一―二丁目

長良川左岸にあり、南は高井坪たかいつぼ御岳おんたけ山の南麓で小簗おやな村・関村に、東は大洞おおぼら山を境に関村・下有知しもうち村に接する。小山が散在するが、全体としては平坦な村で、武儀むぎ郡に属する。村内中央を郡上ぐじよう街道、南部を津保つぼ街道が通る。中世には小瀬庄の庄域であった。慶長郷帳では村高三五九石。元和五年(一六一九)幕府領から尾張藩領となり、幕末に至る。正保郷帳では田方一四〇石余・畑方二一八石余、紙舟役一石余・茶年貢四斗・山年貢四石。明暦覚書では概高五一二石余(うち一〇五石余は鵜飼者控高で諸役免除)、人数六〇八、馬四四、鵜飼舟五・大網小網舟五。

「濃州徇行記」によれば、田畑七七町四反余、新田として元禄六年(一六九三)検地の七〇石余(田七町一反余・畑九町四反余)と延享元年(一七四四)検地の一八一石余(田一三町四反余・畑一〇町余)が加わる。


小瀬村
おぜむら

[現在地名]岩国市大字小瀬

山陽道が安芸国を過ぎ小瀬川を渡ると周防国に入るが、その入口にある村で、北東は小瀬川を境に安芸国、西は百合谷ゆりたに長谷ながたに(現玖珂郡美和町)、南は多田ただ関戸せきど、およびせきはま(現玖珂郡和木町)の各村に接する。南北に長い大村。

「閥閲録」所収阿曾沼六左衛門家文書に、天文二三年(一五五四)五月の戦で戦功のあった阿曾沼少輔十郎宛の毛利元就父子の感状が残るが、その中に「至防州小瀬・御庄相動候之処」とみえる。村名の由来を「玖珂郡志」は「安芸周防二州ノ間、湍水有、巌谷ヨリ出、東ニ流レ平川トナル、名テ小瀬川ト云、其川村ヲ抱ヲ以、此称ヲ得タリト、湯原華表ノ銘ニアリ」とするが、川の名が村名によるのではなかろうか。小名に小瀬表・小原おばら・一つうつ・前淵まえふち乙瀬おとぜはやし小川津おがわづ深瀬ふかせ・葛谷・もちたお(持ヶ峠)丸田まるた・屋敷・矢細工・沼田ぬたはらなど三七余がある。村の東南部を山陽道が通り、ことに周防の始点であった渡場を控えて交通の要衝であった。渡場には渡守の番所・一里塚のほか、口屋番所があった。口屋番所は一種の関所で、主として領内物産紙の密輸を取り締った。小瀬村は岩国藩領における製紙業の中心地でもあったので、口屋番所は渡場だけでなく、村内小川津と深瀬と合わせて三ヵ所に設けられた。


小瀬村
おぜむら

[現在地名]上平村小瀬

漆谷うるしだに村の北方約二一町、庄川の支流小瀬谷川の峡谷状台地に南面して位置し、さらに谷鞍たにくら谷沿いに登ると小瀬峠に至る。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「赤尾」の内に「おせこんかミ」の名がみえる。寛永七年(一六三〇)の高二〇石余、免三ツ五歩五厘余、定納金子二両余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)。高と免は幕末まで変化なし。正保郷帳によると畑方のみで一町三反余。明暦二年(一六五六)以後、納所金子三両三分余・塩硝役金子九分余、蝋・漆・蓑・紙役金子八分余、手上金子六分余、計金子三両二匁余を課せられており、この代銀一六八匁余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)


小瀬村
こぜむら

[現在地名]日原町富田とみた

二俣ふたまた村の東、高津川の両岸に位置する。集落は矢折やおれ中場なかば片山かたやま土間どま・下小瀬・後藤谷ごとうだんにある。慶長七年(一六〇二)の検地高は六〇石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高一五八石余、田一二町七反余・畑一六町七反余(「検地帳」同書)。延宝八年(一六八〇)の青原手鑑(日原町立歴史民俗資料館蔵)によると家数二〇(本百姓一二・下人八)・人数一一二、牛一一・馬二、紙漉舟一三、大元森一。


小瀬村
こぜむら

[現在地名]米沢市窪田町小瀬くぼたまちこせ

中田なかだ村の北西に位置し、東をまつ川、西を鬼面おもの川に挟まれた平地に立地。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば上長井庄「こせ」から一四貫五〇文を納入、うち三貫三〇〇文は中館へ納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、小瀬のうち小簗川大炊助が飯塚石見分の「下こせ在け」「にしの在け」「道中在け」のうち切田二千刈と同居屋敷を、藤田源四郎が当地の屋敷と手作および「たんはさいけ」、本沢玄蕃が十王田一千刈、柳の下一千刈、「とうちやう」分一千刈、「やち田」一千刈、町屋敷、「あらかハ」の棟役・田銭・諸公事免除を、石田平兵衛が手作居屋敷、牧野弾正左衛門が「大ひとろ」切田一千三〇〇刈、鯨岡大蔵少輔が原田五郎三郎分の「しつの在け」、大石長門が富塚近江分「とのも在家」「たんは在家」、大石備後が「かまくらしつ」切田二千刈、樋口十郎右衛門が「しつの在家」一軒などを安堵もしくは下賜されている。


小瀬村
おぜむら

[現在地名]生駒市小瀬町

矢田やた丘陵西部、竜田たつた川沿岸、乙田おとだ村の北に位置。俗にオウゼと発音する。集落内の観泉かんせん(融通念仏宗)境内には康永四年(一三四五)銘の十三重石塔があり、現在一二重を残す。塔下より金銅仏が出土している。

慶長郷帳の村高三五八・二八石、江戸時代初期は幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、延宝七年(一六七九)旗本松平信重領に編入。


小瀬村
こぜむら

[現在地名]上北山村大字小橡ことち

北山川の支流小橡川流域にある。滝川りゆうせん寺所蔵の延徳二年(一四九〇)三月の小瀬一結衆施入の華厳経巻一奥書に「吉野郡神河三村之小瀬」とあり、文禄四年(一五九五)検地帳にも「吉野郡三村之内小瀬」とある。三村とはのちの西野にしの(現大字西原)川合かわい村・小瀬村をさす。慶長郷帳では村名はみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」の内に含まれる。


小瀬村
こせむら

[現在地名]貝塚市小瀬一丁目・小瀬・津田南つだみなみ町・ほり二丁目・半田はんだなど

津田川下流域の平野部の村。村域は両岸にわたるが、集落は左岸に形成され、下流は津田村。南郡に属する。慶長九年(一六〇四)の検地による村高は四六四石余で、うち二石余は福田ふくだ村分(元和五年「万事入用留」要家文書)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では五六一石余(うち山年貢五斗余)、ほかに四一石余の新開田畑がある(元禄初年泉州志補遺)


小瀬村
こせむら

[現在地名]朝日村小瀬

飛騨川右岸、見座みざ村の東にあり、集落は同川に沿う。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に「こせ村」とみえる(→見座村。元禄検地反歩帳の高六二石余、田二町六反余・畑五町三反余。「飛騨国中案内」によれば免は四割五分二厘、家数一七、うち百姓一五・門屋二。寛政一二年(一八〇〇)の村明細帳によれば田三四石余・畑四四石余、うち新田高九石余、反別田三町余・畑六町八反余、家数一五・人数八五、牛八、猟師鉄砲二。


小瀬村
こせむら

[現在地名]柵原町小瀬

栗子くりご村の南に位置する。山之上やまのうえ村より流れる大谷おおたに川が吉井川に流れ込む地に開ける。正保郷帳に村名がみえ、田五石余・畑一九石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて九石余、村位は下。「作陽誌」では家数二〇、男六一・女四八。津山藩森氏断絶後は幕府領、元禄一四年甲斐甲府藩主徳川綱豊領、宝永六年(一七〇九)幕府領、延享二年(一七四五)播磨三日月藩預、寛政六年(一七九四)播磨龍野藩預、明治元年(一八六八)鶴田藩領(美作国郷村支配記)


小瀬村
こせむら

[現在地名]新潟市小瀬

西にし川左岸に沿い、東北は道河原どうがわら村、西は藤野木ふじのき村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録では高九石一斗余で、ほかに「五十嵐・小瀬(ママ)・おミ郷屋新田」高五五石二斗余がみえる。正保国絵図では高四五石余。明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)には小瀬新田村とあり、小見郷屋組に属し高三三七石六斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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