小田実(読み)オダマコト

デジタル大辞泉 「小田実」の意味・読み・例文・類語

おだ‐まこと〔をだ‐〕【小田実】

[1932~2007]小説家・文芸評論家。大阪の生まれ。米国留学中に世界を巡った旅行記何でも見てやろう」がベストセラーとなる。「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)を結成反戦運動に取り組む。「『アボジ』を踏む」で川端康成文学賞受賞。他に「現代史」「HIROSHIMA」「ベトナムから遠く離れて」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小田実」の意味・わかりやすい解説

小田実
おだまこと
(1932―2007)

小説家。大阪生まれ。東京大学文学部言語学科卒業。小田実は戦争が日常的な光景だった戦時下に育った。父や兄は戦争に行き、学校では敵を殺すのはあたりまえだと教えられた。ところが1945年(昭和20)3月13日深夜から始まった大阪大空襲は、一夜にして大阪の街を廃墟(はいきょ)にした。廃墟のあちらこちらには無数の死体が転がっていた。12歳の少年は、その死体が名もない隣のオッチャン、オバハンであり、昨日までいっしょに遊んでいたアイツやコイツであることを知っていた。そいつらはじつにアッケナク、ムゴタラシク、虫けらのように殺されていった。ここから小田実の基本である「難死思想」が生まれる。それは人々がまったく無意味な「難死」を遂げさせられることを拒否する立場にたって「殺すな」を明確化する思想だった。この思想にたって実践されたのが、「べ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」)である。

 小田実は、17歳で書いた『明後日手記』(1951)や大学時代に書いた『わが人生の時』(1956)で第二次世界大戦後の青春を同時進行的に描いた。それは若々しく観念的な作品だった。1958年にアメリカに留学し、北米、ヨーロッパ中近東インドをまわって帰国した。その旅の記録『何でも見てやろう』(1961)は、世界を放浪する若者のバイブルになった。世界各地の街頭にあふれる普通の人々と手ぶり身ぶりをまじえて交歓した。こうして彼は自分にあったことばを発見していった。これ以後、小田実は普通の「ヒト」の言葉で小説を書き始めた。

 『アメリカ』(1962)では美化されたアメリカの幻像を破り、人種差別を抱える混沌(こんとん)としたアメリカ像を創造した。『現代史』(1968)では風俗や性をも含む現代日本の全体像を描いた。『ガ島』(1973)、『海冥(かいめい)』(1981)では太平洋戦争とは市民にとって何だったのかを明らかにした。10年の歳月をかけて取り組んだ『ベトナムから遠く離れて』(1991)は、すべての理想が崩壊した場所から出発して、世界の全体像を再構築しようとしたものである。舞台は神戸である。そこには三つの世代が登場する。第一はニューギニアで人肉を食べて生き残った日本人、アウシュウィッツのガス室から生還したユダヤ人、第二はアメリカ兵と戦ったベトナム人、枯葉剤をまいてベトナム人を殺したアメリカ兵、ベトナム反戦運動に参加した日本人、第三は「おかま」とよばれる高校生、本当の「おかま」になって日本で稼ぐベトナム難民、枯葉剤後遺症の影響がある男の子供を生む決心をした女性などである。これら3世代が入り混じり色と欲と金に目がくらみ、男は男、女は女、正義は正義、邪悪は邪悪の境界を突破してしまう。そこではあたかも正常が異常であり、異常が正常であるような世界が成立してしまう。この作品で小田実は人類の悲劇を包み込む壮大な喜劇を完成した。

 老年を迎えた小田実は『「アボジ」を踏む』(1998。川端康成文学賞受賞)など身辺から素材を得た名短編を書き、阪神・淡路大震災における孤独死と、父と母の死をテーマにした連作『くだく うめく わらう』(2001)などを発表し新境地を開いた。また、2004年(平成16)井上ひさし、大江健三郎、鶴見俊輔らとともに憲法改正に反対する「九条の会」よびかけ人となり、護憲運動を続けた。

[川西政明]

『『小田実全仕事』全10巻(1970~71・河出書房新社)』『『ベトナムから遠く離れて』1~3(1991・講談社)』『『小田実全小説』全13巻・別巻1(1992~ ・第三書館)』『『被災の思想 難死の思想』(1996・朝日新聞社)』『『「アボジ」を踏む――小田実短篇集』(1998・講談社)』『『小田実評論撰』1~3(2000~01・筑摩書房)』『『くだく うめく わらう』(2001・新潮社)』『『何でも見てやろう』(講談社文庫)』『『明後日の手記』(角川文庫)』『『ガ島』(講談社文庫)』『『現代史』上中下(角川文庫)』『『Hiroshima』(講談社文芸文庫)』『『海冥――太平洋戦争にかかわる十六の短篇』(講談社文芸文庫)』『黒古一夫著『小田実――「タダの人」の思想と文学』(2002・勉誠出版)』

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百科事典マイペディア 「小田実」の意味・わかりやすい解説

小田実【おだまこと】

小説家,評論家。大阪府生れ。東京大学卒業。AA作家会議会員。フルブライト交流計画の留学生として渡米し,世界各地を旅行,帰国後の1961年その旅の記録《何でも見てやろう》が多くの読者を得た。以後,小説,評論で活躍。1965年〈ベトナムに平和を! 市民連合〉(略称ベ平連)を結成。開高健,鶴見俊輔らとともに多様な運動を展開(1974年解散)。1970年には〈日本はこれでいいのか市民連合〉を結成している。小説に《アメリカ》《現代史》《HIROSHIMA》など,評論に《難死の思想》《世直しの倫理と論理》など。《小田実全仕事》全11巻がある。
→関連項目高橋和巳鶴見俊輔

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小田実」の解説

小田実 おだ-まこと

1932-2007 昭和後期-平成時代の小説家,評論家。
昭和7年6月2日生まれ。昭和33年フルブライト留学生となり,ハーバード大にまなぶ。36年世界周遊記「何でも見てやろう」がベストセラーとなる。40年鶴見俊輔らと「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成し,反戦運動を展開。平成9年「アボジ」で川端康成文学賞。「日本はこれでいいのか市民連合」代表。平成19年7月30日死去。75歳。大阪出身。東大卒。作品に「現代史」「HIROSHIMA」など。

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367日誕生日大事典 「小田実」の解説

小田 実 (おだ まこと)

生年月日:1932年6月2日
昭和時代;平成時代の小説家;評論家

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世界大百科事典(旧版)内の小田実の言及

【原爆文学】より

…第3は,原爆がもたらした悲劇を庶民の日常生活をとおして書き,文学史に残る傑作と称される井伏鱒二の《黒い雨》(1965‐66)のように,被爆者ではないが,広島,長崎と出会った良心的な文学者たちによって,さまざまな視点から広島,長崎,原水爆,核時代がもたらす諸問題と人間とのかかわりを主題とする作品が書かれた。作品に佐多稲子《樹影》(1970‐72),いいだもも《アメリカの英雄》(1965),堀田善衛《審判》(1960‐63),福永武彦《死の島》(1966‐71),井上光晴《地の群れ》(1963),《明日》,高橋和巳《憂鬱なる党派》(1965),小田実《HIROSHIMA》(1981)などがある。なかでも特筆すべきは大江健三郎(1935‐ )の存在で,1963年に広島に行き《ヒロシマ・ノート》(1964‐65)を発表して以来,〈核時代に人間らしく生きることは,核兵器と,それが文明にもたらしている,すべての狂気について,可能なかぎり確実な想像力をそなえて生きることである〉とする核時代の想像力論を唱え,《洪水はわが魂に及び》(1973),《ピンチランナー調書》(1976),《同時代ゲーム》(1979),《“雨の木(レインツリー)”を聴く女たち》(1982)などの作品を書き,国内だけでなく外国でも高く評価された。…

【ベ平連】より

…1960年代後半から70年代にかけて活動したベトナム反戦の市民運動体。代表は作家の小田実,事務局長は66年から解散まで吉川勇一である。1965年2月のアメリカ軍による大規模な北ベトナム爆撃の開始に抗議し,4月24日,小田実,開高健,鶴見俊輔,いいだ・もも,高畠通敏らの呼びかけたデモが,東京の清水谷公園で行われ(参加1500人),〈ベ平連〉が発足した。…

※「小田実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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