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鶴見俊輔 つるみしゅんすけ

百科事典マイペディアの解説

鶴見俊輔【つるみしゅんすけ】

哲学者。鶴見祐輔の長男。東京都生れ。アメリカのハーバード大学哲学科卒業。1946年京都人文学園講師,1949年京都大学人文科学研究所助教授,1954年東京工業大学助教授となったが,日米安全保障条約調印に抗議して1960年辞職。
→関連項目久野収武谷三男鶴見和子

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デジタル大辞泉の解説

つるみ‐しゅんすけ【鶴見俊輔】

[1922~2015]評論家・哲学者。東京の生まれ。米国ハーバード大学で学んだのち、昭和21年(1946)、都留重人丸山真男らと「思想の科学」を創刊。プラグマティズム論理実証主義を日本に紹介した。昭和40年(1965)には小田実らと「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)を結成。また、大衆文化についても注視し、幅広い分野で評論活動を行った。「戦時期日本の精神史」で大仏次郎賞受賞。他に「アメリカ哲学」「戦後日本の大衆文化史」「柳宗悦」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鶴見俊輔 つるみ-しゅんすけ

1922-2015 昭和後期-平成時代の哲学者,評論家。
大正11年6月25日生まれ。政治家・鶴見祐輔の長男,社会学者・鶴見和子の弟。ハーバード大で哲学をまなび,昭和17年帰国。21年丸山真男,武田清子らと「思想の科学」を創刊。思想の科学研究会で「共同研究・転向」などをまとめる。京大助教授,東京工業大助教授,同志社大教授を歴任。プラグマティズムの紹介や大衆文化論,日常性に立脚した哲学を展開。40年小田実(まこと)らとベ平連を結成し,ベトナム反戦運動を組織。57年「戦時期日本の精神史」で大仏次郎賞。平成6年朝日賞。16年梅原猛,大江健三郎らとともに「九条の会」設立呼びかけ人となる。平成20年「鶴見俊輔書評集成」全3巻で毎日書評賞。平成27年7月20日死去。93歳。東京出身。著作はほかに「日常的思想の可能性」「限界芸術論」「柳宗悦」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鶴見俊輔
つるみしゅんすけ

[生]1922.6.25. 東京
[没]2015.7.20. 京都,京都
哲学者。母方の祖父は後藤新平,父は鶴見祐輔,ともにリベラルで開明的な姿勢で知られる人気政治家だった。だが,少年時代から,この恵まれた境遇の一族に属して暮らすことに違和感をつのらせ,造反と遊蕩,自殺未遂などを繰り返し,中学校を 2度退校。1938年アメリカ合衆国に留学し,翌 1939年ハーバード大学哲学科に入学,チャールズ・サンダース・パース,ウィリアム・ジェームズ,ジョージ・ハーバート・ミードなどのプラグマティズムを学ぶ。日米開戦後,拘留されるが,獄中で卒業用の論文を書き上げ,大学はこれを評価し卒業を認定した。1942年夏,交換船で日本に戻る。1943年,海軍軍属の通訳としてジャカルタに着任。その後,シンガポールで勤務。これら戦時下の日本占領地での経験を通じて,戦争によって殺し合いを人民に強いる「国家」への疑いを深め,そのことが,のちの「転向」研究などの素地となった。敗戦翌年の 1946年,論理実験的方法と多元主義に重きをおく雑誌『思想の科学』を創刊,以後,半世紀にわたって編集と運営の中心を担った(1996休刊)。1949年京都大学助教授,1954年に東京工業大学助教授となるが,1960年,日米安全保障条約の強行採決に抗議して大学を辞職。1965年,「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の発足に参加し,ベトナム戦争反対の運動を続けた。1970年,同志社大学教授(1961着任)を,大学当局による機動隊導入に抗議して辞職。晩年の「九条の会」(2004発足)まで,戦争に反対する行動を持続した。著作は,大衆文化研究から社会思想史まで,広範な分野を舞台とする。『鶴見俊輔集』(正 12巻,続 5巻)など著書多数。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鶴見俊輔
つるみしゅんすけ
(1922―2015)

哲学者、思想家。東京生まれ。祖父は政治家の後藤新平(ごとうしんぺい)、父は政治家で作家の鶴見祐輔(ゆうすけ)(1885―1973)、社会学者の鶴見和子(かずこ)(1918―2006)は姉。第二次世界大戦中の1942年(昭和17)、ハーバード大学在学中に移民法違反の容疑でFBIに逮捕されたが、留置中に卒業論文「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム」を書き上げ、同年、同大学哲学科を卒業、捕虜交換船で帰国する。その後、海軍嘱託となるが、病気のため内地に送還され、敗戦をむかえた。1946年、都留重人(つるしげと)、丸山真男(まるやままさお)らと雑誌『思想の科学』を創刊。創刊当初は、積極的に欧米思想、とりわけプラグマティズムと論理実証主義を紹介し、実質的にその編集を主導した。1949年京都大学助教授、1954年東京工業大学助教授となるが、1960年日米安全保障条約決議に反対して辞職。1961年から1970年まで同志社大学教授を務め、以後、評論活動を中心に活躍する。アメリカの生活と思想に根ざしたリベラリズムの立場から戦後日本を代表するオピニオン・リーダーの一人となるが、その思想の核に据えられたものは戦争の記憶であった。『共同研究転向』(1959~1962)に代表される知識人批判には「知識人はいかにして戦争に加担してしまったか」という反省が基本的動機としてあり、またこれと対(つい)をなす、かるた、らくがき、映画、ラジオ、漫画、大衆小説、流行歌、漫才などの限界芸術・大衆文化への注目は「人びとはいかにして戦争を阻止しうるか」という問題意識に動機づけられていた。とりわけ後者の視点は、「人びと」の日常生活やハビトゥス(生活感覚)にまで「下降」しつつ、民衆意識や大衆文化の研究に大きな成果を生んだ。と同時に、人々の集まり(サークル)の意義にも注目した。研究対象として「サークル」に注目するだけでなく、研究組織においても共同研究を重視し、「記号の会」、「転向研究会」、「家の会」、「現代風俗研究会」などの重要なメンバーとなった。この手法は市民運動にも生かされ、1960年の「声なき声の会」、1965年の「ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)」を生み出すことになる。いわゆる「戦後知識人」といわれる人々のなかで、「ふつうの人びと」の生活と意識をもっとも重視した思想家であり、彼らのなかから数多くの書き手を発掘した。この意味で鶴見は、知識人と「人びと」を媒介する知識人であった。[原田 達]
『『鶴見俊輔著作集』全5巻(1975~1976・筑摩書房) ▽『鶴見俊輔集』全12巻(1991~1992・筑摩書房) ▽『鶴見俊輔座談』全10巻(1996・晶文社) ▽『鶴見俊輔集 続』全5巻(2000~2001・筑摩書房) ▽L・オルソン著、黒川創・北沢恒彦・中尾ハジメ訳『アンビヴァレント・モダーンズ――江藤淳・竹内好・吉本隆明・鶴見俊輔』(1997・新宿書房) ▽原田達著『鶴見俊輔と希望の社会学』(2001・世界思想社)』

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世界大百科事典内の鶴見俊輔の言及

【転向】より

…さらに,マルクス主義の実践を青年期に特有の正義感や急進的理想主義のあらわれとみて,転向とは〈大人になること〉,すなわち成熟もしくは通俗化の結果であるとする見解もある。 このように転向は,さまざまな次元の問題をはらんでおり,研究する側の関心に応じた形で転向像が形成されているのが実情であるが,こうしたなかで,鶴見俊輔をはじめとする思想の科学研究会の編著《転向》は,転向をその契機に着目して〈権力の強制によっておこる思想の変化〉と定義することで,その概念の一般化を図り,共産主義者にとどまらず,戦時体制に協力した自由主義者や社会主義者,終戦時の軍人,戦後の学生運動の人々にいたる広範な事例に転向の概念を適用して検討を試みた。この結果,昭和の知識人たちの思想の変化の諸相が明らかにされるとともに,転向は思想史研究上の方法的概念にまで高められた。…

※「鶴見俊輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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