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南淵請安 みなぶちのしょうあん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

南淵請安
みなぶちのしょうあん

推古朝,舒明朝の遣唐留学生大化改新の功労者。姓は大和国高市郡(たけちのこおり)の地名に由来するとされる。『日本書紀』に「南淵漢人請安」とあり,漢人系の渡来人とされる。推古16(608)年9月の使者裴世清が帰国するとき,大使の小野妹子,小使の吉士雄成(きしのおなり)について,高向玄理,僧らとともに,国書を隋帝に上奏するため,留学僧として隋につかわされた(→遣隋使)。32年間中国に残り,舒明12(640)年に,高向とともに,新羅百済の朝貢使を率いてから帰朝。中大兄皇子天智天皇)と中臣鎌足藤原鎌足)は,南淵に周孔の教え(→儒教)を学ぶ往復の途次に,蘇我氏打倒の謀議を行なったといわれる。経術,文学,武術に通じ,著書が多いとされるが,現存しない。

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デジタル大辞泉の解説

みなぶち‐の‐しょうあん〔‐シヤウアン〕【南淵請安】

飛鳥(あすか)時代の学問僧。漢(あや)氏の出身。小野妹子に随行し、隋に留学。帰国後、中大兄皇子中臣鎌足らに儒学を教授。みなみぶちのしょうあん。生没年未詳。

みなみぶち‐の‐しょうあん〔‐シヤウアン〕【南淵請安】

みなぶちのしょうあん(南淵請安)

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百科事典マイペディアの解説

南淵請安【みなぶちのしょうあん】

7世紀の学僧。生没年不詳。渡来人系の東漢(やまとのあや)氏の一族。608年遣隋使小野妹子(おののいもこ)に従って入隋し,640年帰国。中大兄(なかのおおえ)皇子中臣鎌足(なかとみのかまたり)らに新知識を伝え,大化改新に影響を与えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

南淵請安 みなぶちの-しょうあん

?-? 飛鳥(あすか)時代の僧。
朝鮮渡来系の漢人(あやひと)の一族で,大和(奈良県)高市郡南淵にすむ。推古天皇16年(608)小野妹子にしたがって隋(ずい)(中国)に留学し,32年後帰国。「日本書紀」に中大兄皇子と中臣鎌足が南淵先生(せんじょう)に儒教をまなび,その通学の途中に大化の改新の策をねったとあるのは,請安のこととされる。

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朝日日本歴史人物事典の解説

南淵請安

生年:生没年不詳
7世紀前半の僧侶。名は清安とも書く。大和の高市の南淵(奈良県明日香村稲淵)に住んだ百済人系で加耶の一国安羅(安耶。韓国慶尚南道咸安)から渡来した漢人の出で,推古16(608)年遣隋使小野妹子らに従って隋へ留学した学生,学問僧8人のひとり。隋は唐に代わり,舒明12(640)年,高向玄理 と共に新羅を通って32年ぶりに帰国した。『日本書紀』によると,帰国後,皇極3(644)年ごろ,中臣鎌足 や中大兄皇子(のちの天智天皇)が請安に周孔の教え(周公,孔子の学問,儒教)を学び,その塾の行き帰りに蘇我氏打倒の策をこらしたとのエピソードを伝える。翌年6月,乙巳の変で蘇我氏が討たれ,留学仲間の玄理や僧旻は新政権の国博士となったのに請安は参加した形跡がなく,その直前に死んだとの説があるが,請安は蘇我氏配下の渡来人の出だったため,政変の前に鎌足らと袂を分かったともみなされる。明日香村稲淵に南淵先生の墓と伝えられるものがある。

(鈴木靖民)

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世界大百科事典 第2版の解説

みなぶちのしょうあん【南淵請安】

7世紀前半の学問僧。生没年不詳。大和高市地方の飛鳥川上流の南淵(現,奈良県高市郡明日香村稲淵)に居住した朝鮮渡来系の東漢(やまとのあや)氏の一族。南淵漢人請安ともいい,名を清安にもつくる。来朝した隋使裴世清(はいせいせい)を送る小野妹子にしたがい,608年(推古16)学生高向玄理(たかむくのくろまろ),学問僧旻(みん)らとともに留学し,640年(舒明12)玄理らと新羅を通って帰国。ときに大唐学問僧とみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

南淵請安
みなみぶちのしょうあん

生没年未詳。7世紀前半の学問僧。南淵漢人(あやひと)請安(青安)ともいい、飛鳥(あすか)川上流域の南淵に居住した東漢氏(やまとのあやうじ)の一族。608年(推古天皇16)に小野妹子(おののいもこ)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(みん)らとともに遣隋(けんずい)使として中国に渡り、640年(舒明天皇12)に玄理らとともに新羅(しらぎ)を経て帰国した。この33年に及ぶ中国滞在中に隋から唐への王朝の交替を直接に見聞し、この経験が帰国後に大きな影響を与えたといわれる。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智(てんじ)天皇)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)(藤原鎌足(かまたり))らは、この請安に「周孔の教」(儒教)を学んだといい、その往復の途次に蘇我入鹿(そがのいるか)・蝦夷(えみし)討滅の計画をたてたという。しかし、請安自身がこの蘇我本宗滅亡のクーデターに参画した形跡はなく、あるいは当時すでに死去していたのかもしれない。奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村稲淵(いなぶち)の竜福寺内には請安の墓と伝える塚がある。[佐藤宗諄]

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世界大百科事典内の南淵請安の言及

【唐】より

…この進言は,630年(舒明2)の第1次遣唐使として実現し,これ以後9世紀半ばまでに十数回の遣唐使が派遣されることになる。また第1次遣唐使帰国の際には,二十数年間中国に滞在していた僧旻(みん)(新漢人旻(いまきのあやひとみん))ら留学生もいっしょに帰り,さらに10年後には,留学生の南淵請安(みなぶちのしようあん),高向玄理(たかむくのくろまろ)らも唐から帰国した。彼らは,隋が滅び唐の国家が形成される経過を目のあたりに見てきたと推測されるが,彼らの知識と体験は,大化改新の際に重要な役割を果たした。…

【留学】より

…これ以後,古代の留学生はすべて男性と推定される。 7世紀初めに久しく中絶していた中国王朝との外交が再開されると,608年(推古16)遣隋使小野妹子に従って,高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(新漢人旻(いまきのあやひとみん)),南淵請安(みなぶちのしようあん)ら8人の学生・学問僧が隋に渡った。彼らは,二十数年から三十数年の長期間にわたって中国に滞在し,隋が滅び,唐が興ってくる中国の社会を実見して帰国し,大化改新に始まる律令国家の建設に大きな役割を果たした。…

※「南淵請安」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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