小野氏(読み)おのうじ

改訂新版 世界大百科事典 「小野氏」の意味・わかりやすい解説

小野氏 (おのうじ)

古代の豪族和珥(わに)氏同族。《古事記》の氏族系譜によれば孝昭天皇の皇子天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とする。天武朝の八色(やくさ)の姓で臣から朝臣となった。和珥氏同族の本拠である大和の添上郡(奈良市南東部)や,山城の愛宕郡小野郷(京都市左京区),宇治郡小野郷(京都市山科区)に勢力をもった。また近江の滋賀郡小野村(滋賀県大津市)は氏の起こる所と伝え,氏神の小野神社があり,平安初期には同族の粟田氏,大春日氏,布瑠(ふる)氏も氏神として崇拝していた。小野氏には最初の遣隋使として有名な妹子(いもこ)をはじめ,中納言まで昇った毛野(けぬ)もふくめ,馬養,田守,石根,篁(たかむら)など新羅,渤海,唐への使節に任命された者が多い。また学者としては《凌雲集》の撰者の岑守(みねもり)や《令義解》を撰修した篁,書家としては,草隷をよくした恒柯(つねえだ)や三蹟のひとり道風(とうふう),歌人には六歌仙のひとり小町(こまち)が出て,それぞれ平安時代に活躍した。さらに武将としては878年(元慶2)の出羽俘囚の乱で鎮守府将軍となって力量を発揮した春風や,941年(天慶4)の藤原純友の乱で純友追討の任をはたした好古(よしふる)が出ている。なお妹子の子で毛野の父にあたり,天武朝に〈太政官兼刑部大卿〉であった小野毛人(えみし)の墓が,1613年(慶長18)に山城国愛宕郡小野郷の崇道神社裏山(京都市左京区)から,長さ58.9cm,幅5.9cmの短冊形の鍍金鋳銅製の墓誌を伴って発見された。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小野氏」の解説

小野氏
おのうじ

古代の中堅氏族。姓は臣(おみ),684年(天武13)の八色の姓(やくさのかばね)制定時に朝臣(あそん)となる。始祖は天押帯日子(あめおしたらしひこ)命とし,粟田・柿本氏らと同じく和珥(わに)氏の同族。本拠地は近江国滋賀郡で,小野村(現,滋賀県大津市)には式内社小野神社が鎮座。「小野毛人(えみし)墓誌」の出土した山城国愛宕郡小野郷も勢力下にあったと思われる。7世紀には遣隋使の妹子(いもこ),8世紀以降には遣新羅使の馬養(うまかい)・田守(たもり)(田守は遣渤海使も歴任),遣唐使の石根(いわね)・滋野(しげの)がでて,外交面での活躍が目立つ。一方,老(おゆ)・永見(ながみ)・岑守(みねもり)・篁(たかむら)・滝雄・千株らは大宰府・陸奥国・出羽国などで,地方行政・辺境防衛にたずさわった。岑守・篁などは学者としても著名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小野氏」の意味・わかりやすい解説

小野氏
おのうじ

春日氏の一族。初め臣姓,天武朝に朝臣を賜わる。飛鳥時代の小野妹子は初代遣隋使として有名。平安時代初期の学者小野篁,その孫で藤原純友の乱 (→承平・天慶の乱 ) を平定した小野好古,書家小野道風などいずれもその子孫である。平安時代に最も栄えた氏の一つである。

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世界大百科事典(旧版)内の小野氏の言及

【志賀[町]】より

…湖岸には近江舞子(雄松崎)などの遊泳場があり,比良山地はスキー場として知られる。古代の豪族小野氏の本拠地で,小野篁(おののたかむら)神社(本殿は重要文化財),小野道風神社(本殿は重要文化財),小野妹子の墓と伝える唐臼山古墳などがある。【松原 宏】。…

※「小野氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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