山室村(読み)やまむろむら

日本歴史地名大系 「山室村」の解説

山室村
やまむろむら

[現在地名]松尾町山室

引越ひつこし村の北に位置し、北東は中台なかだい(現横芝町)。銚子方面から岩富いわとみ(現佐倉市)を経て江戸に通じる道が東西に通り、木戸きど川が南流する。山室城は山室氏の居城と伝えられるが、詳細は不明。東西約四五〇メートル・南北約二五〇メートル。I―IV郭から構成され、II郭の塁線が西に張出し、III・IV郭の間の空堀を二重土塁とするなど、戦国末期の形態と推定される。近年の発掘により数次にわたり修復・拡張工事がなされたことが確認され、当地方の拠点的城郭であったことを思わせる。城台しろだいしろこししろした外郭そとぐるわなどの地名が残る。


山室村
やまむろむら

[現在地名]熊本市清水しみず町山室・清水町八景水谷はけのみや

南流する坪井つぼい川の両岸に東西に広がる。東は立田たつだ山の裏山斜面の麻生田あそうだ村、西は丘陵に向かい豊前街道を挟み徳王とくおう(現飽託郡北部町)、北は大窪おおくぼ村と飛田ひだ(現北部町)に接する。菊池往還がほぼ中央部を南北に走る。山室で紛争の発生したことを記した明徳二年(一三九一)四月二六日の少納言書状(詫摩文書)には「さてハやまむろの事」とある。応永六年(一三九九)一月一四日の肥後国鹿子木東荘坪付(同文書)に「一所五町 きた山むろくほいや五郎」とあり、また「御ほんりやう山むろ・なかうら、これをハのそき申候」とある。


山室村
やまむろむら

[現在地名]金津町山室

北金津きたかなづの北東部丘陵上に位置する。室町中期以前と思われる河口庄御検注郷々仏神田注文(神宮寺文書)荒居あらい山荒居やまあらいの五町六〇歩のなかに、「山室毘沙門田 三百歩 山室二季御祭田 二段 同社九日田 一段」とある。正保郷帳によれば総高六二三石余(田方四一〇石余・畠方二一三石余)。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となるが、明和元年(一七六四)から一時期三河国西尾藩領であった。

当村は丘陵上でも窪地に立地し、山陰の地も多く、たけ江(別称山室川、竹田川に注ぐ。松平文庫中の「用水引水配府」には「北金津用水」と記載)は干天では水がかれ、水量の多い時は水はけが悪く、しばしば干害・水腐などが起こっている。


山室村
やまむろむら

[現在地名]松阪市山室町・ひかり

駅部田まやのへた村の南、久保くぼ村の西にある。西は山間と田地を経て村・立野たちの村・桂瀬かつらせ村に続き、南は津藩領上蛸路かみたこじ村に接する。元永二年(一一一九)一二月一八日付豊受大神宮松山御厨注進状案(「氏経卿引付裏文書」神宮文庫蔵)に「東限飯高郡界 南限蝉山 西限山室迫岡 北限飯高神戸」と松山御厨の四至が記され、山室の地名がみえる。


山室村
やまむろむら

[現在地名]高遠町大字山室

月蔵がつぞう山の東北、山室川の沿岸、段丘上の山麓の村。初見は満幸天福寺預状(諸州古文書)で、

<資料は省略されています>

とある。天福てんぷく寺や法華ほつけ堂についてはつまびらかでないが、現妙朝山遠照おんしよう寺との関係が考えられる。天正一九年(一五九一)成立の信州伊奈青表紙之縄帳には、村位は上、村高は「三百拾九石八斗四升壱合七勺 山室」とある。同六年の上諏訪造宮帳によれば比持ひじ郷とともに楓宮かえでのみやの造営にあたっている。


山室村
やまむろむら

[現在地名]八木町字山室

西は大堰おおい川で対岸は北方から雀部ささいべ広垣内ひろがいち神田こうだ鳥羽とば八木島やぎしまの各村である。雀部村との間に渡舟があった。北は舟枝ふなえだ村、東は室橋むろはし村・北広瀬きたひろせ村。筏森いかだもり山・しろ山の西側斜面を占める大堰川沿いの細長い村で、集落は北と南に分れる。

室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)に「山室村修理住所」とみえる。絵図には山室村の東方に「糟掻村」が記され、絵図の方位のゆがみを考慮すると当村の南端、北広瀬村と接する部分の小字粕掛かすかけをさすのではないかと思われる。


山室村
やまむろむら

[現在地名]福井市山室町

九頭竜くずりゆう川の右岸、二日市ふつかいち村の南に位置する。年代は不明であるが当区有文書中に、「一五日講中」に宛てた本願寺教如の消息があり、「越前河合庄下ノ郷タカや村山ムロ村」とある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川合かわい庄に含まれると考えられる。正保郷帳によると田方一千九二石余・畠方八一八石。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によると、酒井外記ほか一〇名の相給知行地であった。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方一千二一〇石五斗余・四七町一反余、畑方七〇〇石・一二町余。


山室村
やまむろむら

[現在地名]柏崎市山室

東は山地で森光もりみつ(現刈羽郡小国町)、西は鯖石さばいし川を挟んで石曾根いしぞね村、北は森近もりちか村。鯖石川下流の森近村寄りに田島たじまの集落がある。文明一八年(一四八六)道興准后の「廻国雑記」に柏崎を経て「やすだ、山むろ、みをけ」を通過したことが記される。天正九年(一五八一)一一月吉日の上杉景勝朱印状(森山八郎氏蔵)によると、発智善次郎に対し「山室之内」を宛行っている。近世は元和二年(一六一六)から同四年に長峰藩牧野忠成領に属したほかは高田藩領、元禄一四年(一七〇一)より幕府領。


山室村
やまむろむら

[現在地名]山東町山室

大鹿おおしか村の西、よこ(臥竜山)東麓の山間に立地。慶長検地では高五七八石余(「正徳三年郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳・正保郷帳では幕府領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。正徳二年(一七一二)高三八七石余が水口藩領、享保九年(一七二四)高一〇〇石余が大和郡山藩領、宝暦八年(一七五八)高一七八石余が遠江浜松藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)。享保九年大和郡山領郷鑑によれば郡山藩領の反別七町七反余、うち田五町四反余・畑二町余・屋敷二反余、家数一八(うち本百姓一五・水呑三)・人数八五、牛馬二、牛頭天王境内に山林三町三反がある。


山室村
やまむろむら

[現在地名]豊田市むろ

矢作川東岸の山室橋付近に位置し、周囲は標高七〇―一〇〇メートルほどの山に囲まれている。文久二年(一八六二)村絵図によれば、集落は行徳ぎようとく寺と宮を中心とした一角に集中し、その北方山上に天王てんのう社と薬師堂がある。集落南には大見おおみ川が流れている。慶長一八年(一六一三)以来明治に至るまで尾張藩寺部渡辺氏領である。


山室村
やまむろむら

[現在地名]津市大里山室おおざとやまむろ

野田のだ村の北にあり、丘陵の麓に群居する。村域の南端を志登茂しとも川支流の前田まえだ川が流れる。江戸時代津藩領となり、寛延期(一七四八―五一)の村勢は戸数一三八、ほかに郷士二、人口六二三、馬一二、牛五。神祠は八王子・明神・若宮、天王二座、寺院は願正がんしよう寺・福泉ふくせん寺・真念しんねん寺がある(宗国史)


山室村
やまむろむら

[現在地名]今立町山室

月尾つきお谷の谷口付近にあり、地名は文明年中(一四六九―八七)と大永年中(一五二一―二八)の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)にみえる。慶長三年(一五九八)の太閤様御前帳(古川家文書)に「野岡山室村」として記されるが、寛文二年(一六六二)の山室村内検地帳(林家文書)では村高六三五・五九六石で山室村となる。しかし元禄三年(一六九〇)の年貢免状(古川家文書)に「野岡山室村御成ケ割付之事」とあり、野岡村より完全に分村してはいなかったことを示している。


山室村
やまむろむら

[現在地名]豊田市平和へいわ

東は矢作川を限り、西は山林原野が多く、南は山林芝生で、北は山林原野だけからなる。全体として耕地は少なく、畑がちの凹凸の多い土地である。矢作川が弓形で湾曲する部分にあって、山すその河岸以外に外に通ずる道がなかった。村域内に、根中第一・第二号墳、新切第一・第二・第四号墳、新切第三・第五号墳、天王山古墳、岩鼻古墳などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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