美術・文芸雑誌。1907年(明治40)5月,石井柏亭,山本鼎,森田恒友の3人の青年美術家により創作版画と美術評論の発表の場をめざす月刊同人誌として創刊された。のち倉田白羊,小杉放庵,織田一磨,坂本繁二郎らが同人に加わったが,いずれも20代の画家,版画家,美術評論家であった。ドイツの漫画雑誌《ユーゲント》などの絵入り雑誌をモデルとし,菊倍判8ページ(のち16ページ)の雑誌だが,近代日本版画史の幕開けを担った木版・石版・銅版画や漫画などの作品が彩りをみせている。また美術論や展評のほか紀行文や詩などの文芸作品も載せ,寄稿者には木下杢太郎,北原白秋,高村光太郎らがあり,〈パンの会〉の主要メンバーでもあった《方寸》同人たちの,美術家と文学者の交流への情熱を示している。《白樺》とともに若い芸術家たちを魅了し,美術文芸誌の時代を画したが,11年7月全35冊をもって終刊した。
執筆者:中島 理寿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治末期の美術文芸誌。1907年(明治40)5月~11年7月。全35冊。方寸社発行。初め表紙とも八ページ、やがて12ページから、後期には16ページとなる。太平洋画会系の青年洋画家、石井柏亭(はくてい)、森田恒友(つねとも)、山本鼎(かなえ)による同人制雑誌として創刊、2年目から倉田白羊(はくよう)、小杉未醒(みせい)(放庵(ほうあん))、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、3年目から織田一磨(おだかずま)、坂本繁二郎(はんじろう)が同人に加わっている。美術誌としては展覧会評、画論、芸術漫画のほか、各画家の自画自刷による石版画、木版画を豊富に発表。かたわら、同人以外にも門戸を開き、とくに文学との交流を図った。おもな寄稿者に、北原白秋(はくしゅう)、木下杢太郎(もくたろう)、高村光太郎(こうたろう)がいる。なお終刊号は、その年の3月に没した「青木繁(しげる)追悼号」である。復刻版(1972~73・三彩社)がある。
[永井信一]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…従来,浮世絵の制作は画師と彫師と摺師の分業が通常であり,明治になっても小林清親,橋口五葉らはその方法に従ったが,明治末からすべての工程を一人の作家が行う,いわゆる創作版画がつくられるようになった。ことに1907年石井柏亭,森田恒友,山本鼎が創刊した雑誌《方寸》は創作版画制作の風を大いに助長した。日本創作版画協会は結成の翌年の第1回展から28年までに8回の展覧会を開き,31年に洋風版画会を合わせて日本版画協会に改まった。…
…しかし浮世絵師の感覚の古さは,しだいにマンネリズムの表現をくりかえし,日清戦争の戦争図あたりを掉尾(とうび)として衰微していった。1907年,太平洋画会系の洋画家石井柏亭,森田恒友,山本鼎らが,美術文芸雑誌《方寸》を発刊し,〈自画自刻自刷〉の創作版画を発表するようになった。これによって時代感覚にそった新しい版画芸術が生まれることとなり,このほかに画家では田辺至(1886‐1968),彫刻家の戸張孤雁,版画家の織田一磨,恩地孝四郎,永瀬義郎,平塚運一,前川千帆(せんぱん)(1889‐1960)ら,創作版画にたずさわる作家の大同団結が,18年の日本創作版画協会結成となった。…
…明治30年代からは石版の主流はポスターと新聞付録絵になり,岡田三郎助や橋口五葉の三越ポスターは評判を呼んだ。有名画家の複製に向かう石版は,大正に入ると写真平版とオフセット印刷を導入した工場印刷となるが,そうした時代に逆らって画家の手になる〈創作版画〉運動を推進したのが,《方寸》に拠った織田一磨,石井柏亭,山本鼎らであった。戦後の日本の石版画は諸外国同様,芸術の一分野としての地位を確立している。…
※「方寸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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