日本の山間部を生活の基盤とした,漂泊性の強い少数集団であったが,第2次大戦あたりを境にして不明となった。サンカは散家,山稼,山家などとも書かれてきたが,民間ではポン,ノアイ,オゲ,ヤマモンなどと呼んでおり,とくに平地の住民からは異端的に見られていた。その生活の実体は十分につかめてはいないが,現在までによるべき民俗学的研究は,柳田国男《“イタカ”及び“サンカ”》(《人類学雑誌》第27巻第6号,第8号,第28巻第2号。《定本柳田国男集》第4巻所収,1967),後藤興善《又鬼と山窩》(1940),三角寛《サンカの社会》(1965)などであろう。その種族的系統については,渡来人説や落人(おちうど)説,中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。生産技術や社会関係,信仰といった生活様式が平地民とやや異なるために,そのいくつかの要素には注目すべきものがある。まず住居は山では洞窟に住み,移動のときには小屋とかテントを張って家族単位に生活し,その住居をセブリと呼んでいた。言葉のいくつかは集団固有のものを用い,それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。サンショとは中世の散所(さんじよ)にあたり,芸能や宗教などにたずさわった者と根をひとつにすると推定されている。生産物としては細工物が多く,箕,籠,簑や笠,下駄などを作り,里におりては食料その他と交換した。移動には冬は南の暖かいところ,夏は北の涼しいところに居をかまえたといい,川漁にたずさわる集団も多かったようである。なかには九州のミツクリカンジン(箕作勧進)のように,戸籍を持たぬ者が多く,集団から脱落して平地におりた者がはじめて戸籍を持った例もある。集団ごとに統一的組織があって,頭目とか親分のようなリーダーが統率し,掟も強固であったようで,それが平地の人間に奇異な印象を与えた。平地の者と交渉するのは,物々交換のときや病人の出たときなどで,継続的に深い交際を持つことはなかった。
第2次大戦後に急に姿を消したのは,日本経済の工業化にともなって彼らの生産物の需要が減少したことと,山間部の開発が進んだためらしい。しかし今日にいたるまで山窩の生活の本拠であった山間に,その墓場らしいものも見いだされておらず,また宗教的施設も確認されていないが,中国地方の山地のように,箕作(みつくり)の末裔と称する者が墓に石塔を立てないで,平たい石を1枚ほど置くのみという伝承もあるので,平地の生活に混入した山窩の文化要素の追究は可能であろう。また医療にしたがう人のなかには,山窩に請われて病人を助けた経験や伝承を持つ者もあり,その結果として山の幸を恵んでもらったとか,医術が急に上達して名医になったとかの話もあるので,異郷人としての山窩を通して,日本人の異人観をさぐるいとぐちとなりうる。
執筆者:坪井 洋文
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… 一般に箕作の者は下り職とみられたが,茨城県では集落に土着するものを箕作と呼び,村々を移動するものは箕直(みなおし)といって区別した。しかし関東では広く箕直は山窩(さんか)のことをさし,箕を作りまた修繕するところから出た名であった。諸地方にみられる箕作山,箕作翁の伝説も,おそらく彼らの漂泊生活と無縁でない。…
※「山窩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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