地表の個々の突起部をいい,山地は地表のうち複雑な起伏が広がっている山の集合する部分をいう。標高の最高はヒマラヤのエベレスト(8848m)である。山とは必ずしも高さの大小だけではなく,相対的な高みを指し,かつ山頂を囲む斜面との組合せでできている地形をいう。
標高だけで高山(3000m以上),中山(1000~2000m),低山(1000m以下)とする区分もあるが,主要な山稜とそれに付随する主要な谷との間の高度差で示される起伏量の大小に従って,山地を大起伏山地(起伏量1800m以上),中起伏山地(900~1800m),小起伏山地(600~900m),丘陵地(150~600m)とする区分がある(アメリカの地理学者トレワーサによる)。これは世界の山地を対象にした区分なので,日本の山地に対しては上記の区分基準を下げ,大起伏(1000m以上),中起伏(500~1000m),小起伏(150~500m),丘陵地(50~150m)のようにした方が当てはめやすい。後者によると例えば赤石山地は大起伏,鈴鹿山地は中起伏,阿武隈山地西半は小起伏,比企丘陵は丘陵地といったように表される。
山地は,起伏や山稜の配列,平面形の特色などから山脈,山系,山塊,高原などと呼ばれる場合があるが,〈山地〉はこれらを包括する概念といってよい。また環境要素として地形を考える場合,平地(平野),盆地に相対する地形地域が〈山地〉である。〈山地〉をやや限定して用いるときは,火山地や高原や丘陵地は除かれる。火山地は火山活動によって生じた起伏地であり,高原は広い範囲にわたってほぼ等量の地盤隆起運動つまり造陸運動を被った結果生じた台状の起伏地である。これに比して山地は限られた狭い範囲に激しい差別的地盤運動(これを造山運動という)が加えられ,さらに削剝浸食が伴って起伏が著しくなった部分である。また,山地は造山運動による断層・褶曲などをうけて一般に地質構造が複雑である。すなわち狭義には,山地といった場合,造山運動の結果生じた地質構造の複雑な起伏地をいう。丘陵地は起伏量が小さく,そのため地形環境が異なるので一応区別される。
アルプス,ヒマラヤをはじめ世界の大山脈の多くは,地殻運動による横圧力によって地層が褶曲させられ,さらに撓曲運動により隆起した〈褶曲山脈〉である。日本列島も巨視的には褶曲山脈であるが,断層の発達が顕著で,局部的には断層崖によって境された〈地塊山地〉の例が多い。六甲山地(兵庫),木曾山脈(長野),生駒山地(大阪・奈良)などがその例である。また奥羽山脈や知床半島のように,造山運動に伴う火山活動により,山地の主脈に沿って火山が列状に並ぶ場合がある。さらに日光火山群,八ヶ岳火山群などのように,火山が群集して広い面積を占めたりするので,〈火山山地〉を区別して用いる必要があるわけである。
山地にはこれを構成するおもな地質・岩石によって区分する呼名がある。例えば六甲山地や木曾山脈は〈花コウ岩山地〉の例で,花コウ岩特有の白色の山体と塊状の山容に特色がある。また〈結晶片岩山地〉は御荷鉾(みかぼ)山地(群馬),大霧山地(埼玉),四国山地北部(徳島)などにみられ,特有の風化粘土に起因する地すべりがみられる。北上山地,秩父山地などは〈古生層山地〉,奥羽山脈,出羽山地などは〈第三紀層山地〉であり,それぞれ岩石の硬軟を反映して特色のある山形を示している。前者の肢節はおおまかではあるが稜線の一部が突兀(とつこつ)とし,後者は緩斜面に富む一方,小谷に刻まれやすく特徴的な地すべりがみられる。
おもにその山地の構造がつくられた造山の時期によって山地を区分する場合もある。スコットランドの山地やスカンジナビア山脈は古生代前半のカレドニア造山によってその概形を生じたので,これらを含めてカレドニア山脈と呼ぶ。古生代末の〈ヘルシニア(バリスカン)造山〉によって生じたのはアパラチア山脈,ウラル山脈,第三紀の〈アルプス造山〉によって生じたのはアルプス,ヒマラヤなど現在みられる大起伏の山地のほとんどである。日本の山地が現在の高さに至ったのはアルプス造山によるといってよい。奥羽山脈や出羽山地などを構成する第三紀中新統のグリーンタフ層は海底の地向斜堆積物で,これが激しい褶曲や深成岩の貫入を伴う造山運動をうけたが,これを〈グリーンタフ造山〉と呼ぶ。この時期も世界的なアルプス造山の時期と一致する。
浸食輪廻説により,時間の経過とともに山地の形態の変化するようすを人の年齢にたとえ幼年山地,壮年山地,老年山地とする区分もある。開析谷によって鋭く刻まれるが原地形の小起伏面を大きく残している山地は幼年山地であり,大陸台地,高原がその極端な例である。壮年山地は接頭辞として早,満,晩を付して細分される。早壮年山地は谷間斜面は急であるが山稜になお小起伏面を残すもの,満壮年山地は山稜と谷の高度差(起伏)が最大になったもの,晩壮年山地は山稜が浸食されて低下し骸骨状になり,谷幅の広くなったものである。老年山地は削剝が進み起伏がさらに小さく緩やかになったものである。丹沢山地は早壮年,飛驒山脈は満壮年,筑波山地は晩壮年の時期にあたる例である。
乾燥地域の山地の山腹には裸岩が目だち,湿潤地域の山地の山腹は森林植生に覆われるが,高度が大きくなり,樹木限界線を超えると高山草本帯から裸岩地となり,万年雪田や氷河が着生するようになる。山岳氷河の浸食をうけた氷食山地,多雪地帯で雪の浸食をうけやすい雪食山地はそれぞれ河食作用を主とする正規浸食の山地とは異なった地形の特色をもっている。
執筆者:式 正英
山と日本人
古代,中世
古代の山はその大部分が太古そのままの状態にあった。当時の山の民,里の民は首長の共同体支配のもとで,鳥獣の狩猟,草木果実の採取,焼畑などの生業や,他郷との往来のために山へ入り,その生活圏を広げていたが,山はなお神々と祖霊の支配する無主の世界であった。律令国家も〈雑令〉国内条で〈山川藪沢の利は,公私共にせよ〉と規定しただけで,山地は一般に官・民の共同利用に任せ,国家的用途と民業を妨げない範囲で,王臣,社寺,豪民らの私的な占取と用益を認めていた。そのうち聖地として占取された山陵,墓山,神山,寺山は排他的な独占性が強く,入山,狩猟,伐木が禁じられていた。また朝廷も官採の鉱山など公用の山地を〈禁処〉とした。山野の諸産物を採取するための経済的占取の場合は,杣山(そまやま)は木材,牧(まき)は草地,狩場は鳥獣とその利用目的に限って許され,それを理由に山を独占して住民らの入山・利用を妨げることは禁じられた。しかし,荘園制的大土地所有の発達にともなって,官衙,権門,大社寺,富豪らは,広く山野を囲い込んで杣,牧,御薗,御厨(みくりや),御野などの領有を拡大し,四至(しいし)内に入った住民の斧・鎌などを没収し,山手その他の所役を賦課するようになった。こうして山野を場とする原始諸産業とそれに従事する住民を寄人・荘民として,中世の所領荘園の体制が確立する。一方,古代から中世にかけて活躍した山林修行者によって各地の霊山が開かれ,顕密の山岳寺院とその末寺諸山の組織が形成され,深山幽谷を遍歴修行して験力を得ようとする修験の山伏らが,大峰山をはじめとする諸国の名山高峰に,神仏習合の宗教的世界を繰り広げていった。
執筆者:戸田 芳実
近世
近世の村の多くは山野に隣接し,農民にとっても,山は生活に深くかかわっていた。村の成立そのものも,平地の農民が山地に開拓の歩を進めた例のほか,山地住民が山野を耕地化して農民化していった例があると考えられる。ただ,幕藩領主の年貢収取を中心とする支配は,耕地を経営する農民を主対象とし,文献は,平地住民の目に依拠したから,山地民に由来する村の証跡は,明確には伝わりにくい。〈ヤマワロ〉ということばが,《本草綱目》の狒狒(ひひ)にあてられて獣部寓類に編入されたのを著しい例とし,木地屋,マタギ,杣人,炭焼きなど,平地住民と交渉をもった山地民も,程度の差こそあれ,蔑視の対象になり,彼らの側からの記録をまれにしか残さない。
平地住民にとっても,山は経済的にごく有用な場であった。近世初期の都市造営と河川,池,堤などの土木工事の盛行は,木材の需要を急増させ,奥山までも樹木の伐採が進んだのち,大規模な植林策がみられた例が多い。農業経営自体にとっても,肥料,牛馬餌料の供給地として山は不可欠であり,その利用権をめぐって,村々が争った記録は多い。山の耕地化が進み,18世紀後半以後には桑畑の拡大欲などによる矛盾が紛争を生むこともあったが,紛争例が多く記録される反面,相接して山野を利用する多くの村の住民が,そこで相互交流の機会をもったことも見のがせない。山の口明けは,しばしば村民共同の一種の遊楽としての印象を伝えている。山は肥料,餌料,燃料や諸道具を生み出すほか,木の実や皮,草の根,キノコ類,渓流魚や鳥獣などを含めて,食料の供給地でもあり,飢饉のおりは,とくにその意味が大きかった。農民の領主に対する抵抗の一つとしての逃散(ちようさん)も,山の食料に支えられた面が注意さるべきだし,山林に隠れ住む〈疑わしきもの〉のせんさく令が,しばしば領主法にみえ,博奕(ばくち)も,山野を場に行われることがあった。山の木は,その根さえも灯火用などの需要があり,ウルシは,樹液と実との効用から本数を登録される例があり,イボタ蠟など山林の虫類産物も,小物成として徴されもした。古来の有力農民や寺で,家伝薬配布例が多いのは,その山野支配に由来する面をもつが,幕府や諸藩も山地薬草探索に熱心で,採薬者の深山への旅は,本草学を軸とした自然誌理解を進めた。薬としては,熊の胆を筆頭とする山の動物も重要であったが,動物類では,鷹の幼鳥捕獲が,とくに幕府の大きな関心事であった。実効抜きの珍鳥獣の探索も,18世紀の諸国物産調などで試みられ,ライチョウの捕獲・飼育例が記録されている。金属と陶土,また土木材料としての石,庭石や石臼材などに及ぶ鉱物も,主として山に求められ,鉱山開発の計画者が深山を探訪した。〈ヤマ〉ということばは,ときに鉱山を意味した。温泉の多くも山地に見いだされ,湯治が,日常生活からの解放と休息の機会となったのは,山の食料や薬,修験の道場としての役割などとも結びつき,さらに山という平地世界と異なる環境が重視された結果と考えられる。
山利用のための道は,しばしば諸村の共同作業を生み出し,村々の争論をも生んだが,遠隔地間を結ぶ道は一般に山を越えたので,意図して山に入るもの以外にも,通行者は多かった。古くからの国境(くにざかい)のほか,諸大名領の境が山であることも多かったから,そこに関所や番所が設けられ,警衛の任を帯びた村が設定されたりした。18世紀ころから,古来の特権的な商業従事者などの統制に対して,新規の流通路を求める動きが強まり,険阻な山道が新たに開発される。冬季,山道の避難小屋が設けられた例もある。
山は,また河川の水源であり,河川は運材路として重要であったが,農業用水の新開発を企図するものが深山の探索者となった。山林の濫伐が水源を失わせる危惧も大きく,山崩れは,その形状から蛇抜(じやぬ)けなどと呼ばれて恐れられた。幕府が1666年(寛文6)に発した諸国山川掟は,淀川・大和川水系の山について,所領の別を超えて,水源涵養のための治山策を命じたものとして注目される。
山資源は近隣住民に利用されたが,例えば鷹巣山は王者の権として将軍家の鷹狩用に鷹の子を調達すべき山とされ,住民のいっさいの利用を拒否する地であった。鉱山も将軍家に強く支配された。優良木材の多くが,領主の排他的な利用権下に置かれ,その河川工事などの土木工事の権限をも支えたが,これも本来将軍家御用に当てられる論理に出発したらしい。キノコや川魚類が,将軍家への献上品として,住民の利用を制される例もあった。また,村々の山野利用権をめぐる争いは,最終的には幕府の裁許に待つものであり,諸領接触域の山野の開発について,幕府は,個別領主の権限を否定する方針をとった。中国古典にみえる〈名山大沢は封ぜず〉という主張に支えられて,石高を付さない山野は,基本的に将軍家のものとする観念が存在した。これと,山が平地世界から解放される場であるかにみえる面との関係は,大きな問題であるが,領域を限って,その範囲内を支配地とする論理に対して,耕地経営と密着した山野利用の進展が,事実上,耕地経営者の山への私権の成長をもたらしていった面に注目してよかろう。幕府の薬草への強い関心にもかかわらず,山間地住民の薬草利用とその知識が,幕府に集約しきれなかったことも,この事情の一端を示す。
山は,しばしば信仰の対象であったが,とくに参詣の対象とならない山でも,雨乞いの際に登る場になったりした。旅行者や航海者にとって,山は重要な目印であり,伊能忠敬らに至る測量も,山のこの機能に依拠していた。山肌の雪模様や山にかかる雲などの観察経験から,農事暦や天候を読み取っていたことも,広くみられ,一つの山を同一方向から見る者は,イメージに結びついた郷土感覚を共有した。名山が,しばしば郷土の誇りの第一にあげられるのは,そのような事情によるであろう。
執筆者:塚本 学
民俗
少なくとも日本を含めたアジア諸地域においては,生活様式としての山の民俗を里の農村や都市のそれと比較して,後進的であるという前提に立って研究が進められてきた。里の生活様式を中心としてみた山の後進性への関心は,山にはより古い生産形態や社会組織,信仰現象が残存しており,それを抽出することによって里の現在を説明することが可能と考えたためである。したがって,なぜ後進的であるかについての検討は十分なされないままであった。その要因の一つは,日本の民俗や歴史が水田稲作農耕を単一の基盤として形成され,一元的に発展してきたという常識に支配された研究者が多かったためであり,山と里の生活様式の違いを体系的な文化の差としてとらえようとする問題意識が生まれにくかったのだといえる。
長い日本の歴史をとおして,水田稲作農耕文化の強い刺激を受けながらも,山棲み独自の文化が維持されてきたのは,何よりも山という自然と人間との相互作用に基づく生産形態の相違によるものであった。その一つは焼畑や常畑に代表される畑作農耕である。根菜類や穀類を主とする畑作農耕は,水田稲作とはその生産技術に差があり,また生産される作物の認識体系や利用法も異なっている。水田稲作に一義的価値を置く側からみれば,非稲作農耕を劣位に置き,そのような農耕しか行いえない人間も同様に劣位に位置づけるということになる。これは大きな誤解である。技術論的次元では根菜・雑穀栽培から稲作への変遷を考えることが可能であるが,各段階はそれぞれ独立した対等の文化であり,共存することのできる文化なのである。山で根菜・雑穀栽培に従事する人々もまた,稲が根菜類や雑穀よりも優れていると認識している。これは少なくとも近代以降,政治も学問も一貫して里における稲作の近代化や合理化を推し進めてきたためである。また根菜・雑穀栽培に関する研究や検討すべき資料も失われて,その価値についての評価がむつかしくなっているためである。
いま一つは,山が豊富な生活資源を提供する場でもあったことである。自給自足的には草や木などの採取物があり,また交易品生産のための専門技術としては,養蚕,狩猟をはじめ木工業,鉱業,薪炭業などを成立させる資源を山は有していた。これらの産物や技術は里との交流に結びつき,山の文化に対する認識を深めさせてきたのであるが,彼らが里を漂泊し,やがて定住するにいたって,水田稲作農耕民から劣位に置かれるようになった。しかし山と人間との相互作用のうえに成立した多様な生産技術は,里の文化に刺激を与える役割を担っていたのである。
山を舞台とした人間と人間との関係は,山を共有することを前提に成り立っているため,対等を原則としてきたといってよい。木の実や山菜の類の採取は口明け制の慣行により,特定の日時を定めて山に入るのがふつうである。近畿地方のように,松茸の出るころになると,私有の山であっても村や区が松茸の採取権を入札制で売却し,その収益を公共の費用に当てるところもある。また,狩猟の場合の獲物の分配は参加者に平等であり,ときには鉄砲の音を聞いて駆けつけた者があっても平等に分配したので,山分けという言葉が一般化したほどである。
焼畑も共有の山を利用することが多かった。特定の区画を焼いて数年の間作物を栽培し,土地の力が弱まると放棄して山に戻し,他の区画を焼くのである。焼くときは共同作業で行っても,栽培の作業は単独で行われた。共同で山を利用しながら,狩猟のようにその恩恵は平等に配分し,焼畑からの収益はその個人的能力にまかせるのであるから,そこには独立的な人間関係の原則が貫かれている。
山は漁民にとっても重要な意味をもっていた。漁民が海上に出たとき,山を目印として船の位置を知る方法を山あてといい,漁民にとって山は自己の存在を確認する尺度であった。この山が見えなくなってしまう沖合を山無しというように,山の見える空間が漁民の空間と認識されていたことがわかる。漁民が海に出て使う沖言葉と,猟師などが山に入って使う山言葉とが,各地で不思議な一致をみせているのは,両者の間に交渉のあったことを示している。
→山岳信仰 →修験道 →山の神 →山人
執筆者:坪井 洋文
中国
顓頊(せんぎよく)と天下の覇者の地位を争った共工が,腹だちまぎれに不周山にぶつかり,天を支える柱が折れ,地をつなぎとめる綱がきれ,そのため天は西北に傾き,地は東南に傾いたという伝説にもうかがわれるように,古代の中国人にとって,山は天と地をつなぐ存在であると考えられた。中国の西北方に存在すると想像された崑崙山(こんろんざん)も,それは大地の中心に位置する天柱であって,天帝の下都が置かれ,天上の神仙世界に向かう通路であるとされた。
一方,現実の山は,後漢の劉煕(りゆうき)の《釈名(しやくみよう)》が〈山〉を同音の〈産〉で解釈し,〈万物を産む〉の意味だと説明しているように,鳥獣草木の動植物だけでなく,さまざまの鉱物資源を産出する所であった。たとえば《山海経(せんがいきよう)》には,天下の名山は5370,そのうち銅を産出する山は467,鉄を産出する山は3690と数えている。それら諸名山の代表は五岳,すなわち東岳の泰山(山東省),西岳の華山(陝西省),南岳の衡山(湖南省),北岳の恒山(河北省),中岳の嵩山(すうざん)(河南省)の五山であり,三公の地位になぞらえられて天子が祭りを行った。なかでも東岳泰山は,死者の霊魂が集まる冥府の所在地と考えられ,また,しばしば封禅の儀式が行われたところとして有名である。
山を神聖視する観念は,とりわけ道教徒の間ではぐくまれた。《五岳真形図》と呼ばれる山岳図は彼らの間で重要視されたし,また練丹をはじめとする仙薬の製造は山中で行わねばならぬとされたのは,山神の加護を得るためであった。だがその一方,山神は恐ろしい存在でもあった。山それぞれに入山の日が決まっており,もし日を取り違えると山神のたたりがあると考えられた。また,あらかじめ数日間の斎戒を行ったうえ,〈入山符〉と呼ばれる護符を帯につけ,鏡を背にかけて入山しなければならなかった。山神の妖怪も鏡に姿をうつされると正体を現し,危害を加えることができないと信ぜられたからである。
執筆者:吉川 忠夫
ヨーロッパにおける民俗と伝承
山は天に近く俗界を見下ろすところから古来神々の住居とされた。それはギリシアのオリュンポス山,パルナッソス山,ヘリコン山や北欧の神話にちなむオーディン山(ドイツ,ボン郊外)などからも知れる。またシナイ山のように神の啓示が下る場所ともされる。ゲルマン人の間で山が神聖視されたことは,9世紀にアイスランドに植民した北ゲルマン人がヘルガフェル(聖山)を崇拝しその神聖さを守るための規定をつくったことにもよくうかがえる。またゲルマン人は人が死ぬと丘や山へ行くという信仰をもっていて,王墓や祖先の墓をそこにつくった。ドイツで教会や礼拝堂がよく山の上にあるのは,キリスト教に改宗する以前の異教の礼拝地を示していることが多い。このように神聖視され崇拝の対象となった丘あるいは山は,裁判や祭祀の場となり,そこで豊饒祈願の供犠が行われた。山には王や英雄ばかりか軍勢まで死後にすんでいるという伝説が西ヨーロッパに多い。ドイツのハルツ山地にあるキュフホイザーKyffhäuserにはフリードリヒ2世(のち1世赤髭王に結びつけられる)が座ったまま待機していて祖国存亡の時がくると兵を率いて駆けつけるという(フリードリヒ伝説)。死者が山にすむという信仰から,山はまた小人や妖怪,悪魔,幽霊が寄り集まる所ともされた。このため山は思いもかけぬ宝と出会ったり,身の毛もよだつ恐怖にさらされる場所となる。ドイツのブロッケン山でワルプルギスの夜(5月1日の前夜)に魔女たちが集会を開くとされたことは有名である。魔術師は悪魔と山上で会って契約するのだともいう。
山の中に小人やコーボルトの国があるという話は,さまざまな伝説やメルヘンに語られている。また山中に突如緑の牧場が出現したり,金銀でいっぱいの部屋があるとされる。これらは楽園や鉱山のイメージと結びついてできたものであろう。南ドイツのウンターベルクUntersbergの山中には大きなドームと黄金の祭壇が見られたというが,これは明らかにキリスト教の影響と思われる。山の中にある宝というのはたいてい乙女や白い女,黒犬や竜または蛇に守られている。人間がそこへ入るためにはふつう〈青い花〉や〈跳びはねる根〉などを必要とする。またこのような山は3年に1度とか一定の日,一定の時刻にしか開かず,幸運にも中へ入れた人は,運べるだけの宝を運ぶことが許されるのだが,決められた時間内に出なければならない。また後で宝のことを他人に口外してはならない。そうするとせっかく手にした金銀も消えたり,生命まで失うことになる。山はまた天気を占うのにも重要な役割を果たす。山に雲の笠がかかれば雨,かからなければ晴のように。復活祭のころ昔はよく雨乞い行列がドイツをはじめ多くの所でなされたものである。
→森
執筆者:谷口 幸男
山をめぐる神話
ギリシア神話では,ギリシア一の高峰オリュンポス山の頂上が神々の住む天上界とみなされているが,このように高山の頂上を神々の住処(すみか)とする観念は,多くの神話に共通してみられる。古代インドの神話でも,大地の臍に当たる世界の中心に神山メールがそびえ,その頂上にインドラが王として支配する天国スワルガがあって,神々と神霊たちがそこに都市を造って住んでいるとされており,この信仰は,須弥山(しゆみせん)の頂上にある帝釈天(たいしやくてん)を王とする三十三天の住処の〈忉利天(とうりてん)〉として,仏典に取り入れられている。古代中国における崑崙山も同様でのちにこの山は西王母(せいおうぼ)の住処とみなされるようになった。メール山の観念の影響は北方アジアのアルタイ系遊牧民族の間に広く見いだされ,モンゴル系諸族の神話では,世界の中心にあって頂上に神々の住処がある山は,メール山の別名であるスメールや,その転訛であることが明らかなスムル,スムブルなどという名で呼ばれる。ブリヤート人の神話によれば,原初はただ一面の水と,その中に1頭の巨大な亀がいるだけであったが,神がこの亀をあおむけにしてその上に大地を造ったという。4本の足の上には,それぞれ大陸が造られ,臍の上にスムブル山が造られ,その頂上に神々の住む宮殿が置かれた。この宮殿にある塔の黄金の先端が北極星であるという。タタール人の間では,この山はある地方では〈鉄の山〉と呼ばれ,別の地方では〈黄金の山〉と呼ばれて,最高神バイウルガンの天上の座所と信じられている。ヤクート人の神話では,天上にある神々の住処は石の山で,雪のように純白であるとされている。
カルムイク人の神話によれば,世界を創造したのは4人の怪力の神で,彼らは力を合わせてスメール山をつかみ,それで大洋を,バターを攪拌するのと同じやり方で激しく攪拌して,海から太陽や月や星などを発生させた。これは明らかに,不死の飲料アムリタが製造された次第を物語った,有名なインド神話が変化した話である。インド神話によると,神々はあるときビシュヌ大神の指示に従い,悪魔たちとともに力を合わせて大洋を攪拌し,アムリタを得ることにした。彼らは,まずマンダラ山を引き抜いて海に入れ,海底で亀の王アクーパーラにそれを支えさせた。そして蛇の王バースキを綱の代りとしてそのまわりに巻きつけ,悪魔たちに蛇の頭を持たせ,神々は尻を持って,引っ張り合い,海中で山を回転させた。すると海水は雷のような轟音を発し,マンダラ山は摩擦によって燃え上がり海中と山中で多くの生物が死に,大量の樹脂と草の汁が海中に流れ込んで海水は乳に変わった。なお攪拌を続けるとバターになった。そしてこのバターの海から太陽,月,美の女神ラクシュミー,酒の女神スラー・デービー,白馬,宝珠カウストゥバなどが次々に生じ,最後にアムリタの入った純白の鉢を持った医術の神ダンバンタリが出現した。神々と悪魔たちの激しい争いの末に,アムリタは結局神々に独占されることになったというのである。
古代中国で天下第一の名山とされた泰山は,〈人の魂を召すことをつかさどる〉とか,〈死者の魂神は泰山に帰する〉などと言われて冥府のようにみなされ,この山の神の泰山府君または東岳神は,人々の寿命を預ると信じられた。このように山中に冥界があるとみなす観念も多くの地域にみられる。インドネシアのモルッカ諸島のセラム島に住むウェマーレ族の神話によれば,人間の祖先は,この島の西部にあるヌヌサクという山の頂上に生えていたバナナの熟した実から生じた。バナナの木に一つだけなっていた未熟な実から生まれたのがサテネという名の少女で,彼女は祖先たちの支配者となったが,のちに彼らの所行に立腹してニトゥと呼ばれる精霊となり,彼らのもとから去った。以来彼女は死者の山のサラフア山に住んでおり,人間は死後困難な旅を経てそこに行かねばならない。その旅の間に死者は八つの山を越えねばならず,これらの山にはそれぞれ別のニトゥが住んでいるという。
ギリシア神話の最高神ゼウスは,クレタ島の山中の岩屋の中で生まれ,育てられた。神々の伝令役を務めるヘルメスも,アルカディアのキュレネ山中の岩屋の中で誕生している。テッサリアのペリオン山中の岩屋には,半人半馬の怪物で老賢者のケンタウロスのケイロンが住み,医術の神アスクレピオス,英雄のアキレウスやイアソンらを教育した。ギリシア神話では,山はまた,サテュロス,シレノス,パンなどの半獣神たちや,優美な女精のニンフたちの住処で,狩猟の女神アルテミスがニンフの群れを引き連れて狩りにふける場所でもあり,酒神ディオニュソスの密儀が,狂乱した信女たちにより行われる場所でもあった。このように山を神の誕生の場所とか,そこで成長しあるいは修行する者が超能力を得るとか,精霊や怪物の住処とか,神の来臨する場所などとみなす観念や信仰も,世界の各地に共通して見いだされる。
執筆者:吉田 敦彦