改訂新版 世界大百科事典 「漂泊民」の意味・わかりやすい解説
漂泊民 (ひょうはくみん)
さすらい人。漂泊・遍歴と定住・定着とは,人間の二つの基本的な生活形態である。それゆえ,漂泊民といい,定住民といっても,それは絶対的なものではなく,漂泊についていえば,居所の定まらぬ漂泊,本拠地を持つ遍歴,本拠地を変更するさいの移動,さらに一時的な旅など,さまざまな形態がありうる。しかし,一個の人間にとっても人間の社会においても,またその展開される場や生業のあり方に即しても,漂泊と定住とは,対立・矛盾する生活形態であり,相異なる生活の気分,意識,思想がその中から生まれてくる。おのずとそれは,人間とその社会,歴史をとらえるさいの二つの対立した見方,立場にもなりうる。例えば定住的な農業民にとって,漂泊・遍歴する人々は異人,〈まれひと〉,神であるとともに乞食であり,定住民は畏敬と侮蔑,歓待と畏怖との混合した心態をもって漂泊民に接したといわれるが,逆に漂泊・遍歴する狩猟・漁労民,遊牧民,商人等にとって,定住民の社会は旅宿の場であるとともに,交易,ときに略奪の対象でもあった。また農業民にとっては田畠等の耕地が生活の基礎であったのに対し,狩猟・漁労民,商人等にとっては山野河海,道,市等がその生活の舞台だったのである。そしてこうした対立した立場のいずれが社会の中で支配的な比重を持つかによって,一方による他方の抑圧,賤視が生じうるが,それは時代により,また民族,地域等によってさまざまであり,固定的にとらえることはできない。
日本の社会の場合,漂泊民と定住民との分化が多少とも現れてくるのは,農業の開始以後であるが,14世紀ごろまでは,その区別は必ずしも明確でなく,両者の関係は流動的であった。漁労民-海民,狩猟・採集民-山民,さらに芸能民,呪術者,宗教者,商工民等が,山野河海で活動し,道を通り,市で交易活動を展開する限りにおいて,彼らは漂泊民,遍歴民として姿を現すが,その根拠地においては若干の農業に携わる場合が多かった。釣糸を垂れ,網を引く海人(あま)や斧を持つ山人,遊行女婦(うかれめ)や乞食人,山林に入り,道路を遊行する聖(ひじり),さらに時代を下れば廻船人,塩売・薬売から鋳物師(いもじ)にいたる商工民,馬借・車借などの交通業者,遊女・傀儡(くぐつ)等の芸能民などは,みなそうした人々であり,11世紀に入れば,これらの人々を〈道々の輩〉(道々の者)として一括する見方も現れてくる。
しかし一方の,主として田畠を基盤に生活する農業民の場合も,その定住性はしだいに安定化の方向に向かっているとはいえ,山野河海の産物,その加工に依存する度合は大きく,定住地の移動もしばしば起こりえたのである。共同体成員としての義務を果たせず,また支配者の圧迫にたえかねて,逃亡,浮浪する人々も少なからずあり,宗教的な動機などによって意識的に共同体を離脱する人,さらに罪を犯し,〈業病〉にかかったがゆえに共同体から追放される人々もあった。こうした人々は,一時的にせよ永続的にせよ,漂泊民となっていったのである。
これらの漂泊・遍歴する人々,旅する人々は,定住状態にある人々とは異なった衣装を身につけた。鹿の皮衣をまとい,鹿杖(かせづえ)をつく浮浪人や芸能民,聖,蓑笠をつけ,あるいは柿色の帷を着る山伏や非人,覆面をする非人や商人,さらに縄文時代以来の衣といわれる編衣(あみぎぬ)を身につけた遊行僧の姿は,みな漂泊民の特徴的な衣装であった。また日本においては女性の商人・芸能民・旅人も多かったが,この場合も,壺装束という深い市女笠(いちめがさ)をかぶり,襷(たすき)をかけた巫女の服装に共通した姿をしたり,桂女(かつらめ)のような特有の被り物(かぶりもの)をするのがふつうであった。11世紀以後,男女を問わず,天皇家の供御人(くごにん)や大寺社の神人(じにん)・寄人(よりうど)となり,自由通行権を保証され,遍歴・交易に従事する職能民が多くなったが,この人々は神人の黄衣のような特有の服装を身につけ,また過所(かしよ),短冊,札などを所持したのである。
こうした漂泊・遍歴する人々の歌声は《梁塵秘抄(りようじんひしよう)》によってうかがいうるし,その多様な姿は《一遍上人絵伝(《一遍聖絵》)》を通して知ることができる。これは漂泊民自身の表現であり,その立場に立ったものといいうるが,定住民にとって漂泊民・遍歴民の生活,その姿は《万葉集》以来和歌の歌材となり,さまざまな文学・絵画の対象となった。菅原道真が《寒草十首》で浮浪人,駅子,水手,漁人,塩売,木こりを漢詩に詠み,藤原明衡が《新猿楽記》でさまざまな〈所能〉を持つ人々の姿を描き,大江匡房(まさふさ)が《遊女記》《儡子記》を書いたのをはじめとして,漂泊民をとり上げた文学は多く,〈道々の者〉を描いた《職人歌合》はもとより,絵巻物の中には,遍歴する人々の姿が細かく書きこまれている。そして《平家物語》をはじめとする語り物は,漂泊民の寄与なしには成立しえなかったといってよい。これらの漂泊・遍歴民の活動の舞台は,山野河海をはじめ,道,市等であったが,こうした場は無主の地として,田畠・屋敷等の有主の地とは区別され,そこで起こったことはその場のみで処理される慣習に支えられた場で,アジールとしての機能を持っていた。
また漂泊民は定住民の中に一時的な旅宿を求めることもあった。13世紀の若狭国太良(たら)荘を訪れた乞食法師が農業民から稲を与えられ,間人(もうと)の家を宿としているように,このころの定住民は漂泊民に対し,けっしてつねに忌避的であったわけではない。しかし宿はしばしば河原や,遊女・傀儡などの根拠地に成立し,寺院が宿の機能を持つ場合もあったのである。他方,漂泊民,遍歴民は,その本拠とする津,泊(とまり),渡し(わたし)や境,坂などをはじめ,山野河海,道などの場で〈道切り〉を行い,通行する人々から〈手向け〉初穂を要求することがあった。この行為が公認された場合,そこは関となったのであり,中世の関で関料を徴収しえたのは,勧進上人をはじめとするこうした遍歴民自身だったのである。関料が橋や港湾,寺社などの修造のために使用された理由の一つも,ここに求められる。しかしこの行為が公認されることなく行われたとき,漂泊民・遍歴民はしばしば海賊,山賊になったのである。13世紀後半から重大な政治問題となった悪党も,こうした漂泊民の動向とかかわりがあり,彼らは柿帷を着て覆面をするという漂泊民-非人の衣装を身につけ,ときには〈金銀ヲチリバメ,鎧・腹巻テリカガヤクバカリ〉(《峯相記》)という〈ばさら〉の風体で姿を現したのである。
14世紀にかけて,こうした〈ばさら〉な風潮を積極的に肯定する動きが世に広がる反面,悪党-漂泊民の風体を〈人倫ニ異ナル〉〈異類異形〉として忌避,嫌悪する風潮が定住民の側にしだいに強くなってくる。時宗の徒や禅僧を口をきわめて罵倒した《野守鏡》や《天狗草紙》はこの後者の潮流を代表しており,この2潮流は二つの政治勢力の公然たる対立にまで発展した。南北朝の動乱の渦中で,高師直と足利直義の対立をはじめ,こうした対立はさまざまな形で顕在化するが,内乱が収束されるころには,社会の中での定住民と漂泊民のあり方は大きく変化するにいたった。
15世紀以降,定住的な農村,廻船・漁労に携わる海村(漁村),山仕事を主とする山村等が,自治的な村落として分化,確立する一方,各地の津・泊など,古くから遍歴民の本拠や,河原・中州の市に,各種の商工民,芸能民が〈屋〉を持って定着・集住する動きが進み,自治都市が広範に成立する。いわば村・町がそれぞれに確立してきたのであるが,こうした農村と都市を結んで遍歴(旅)をする商人もまたその社会的な立場を固めた。そして商工民,芸能民はそれぞれに売庭,立庭,舞庭,旦那庭,乞庭などの商圏,交易圏(縄張り)を確保,遍歴する道・市等の範囲を一個の権利として保持するようになったのである。
日本の社会はここに本格的に農業社会として成熟し,農漁山村,都市それぞれに意味は異なるとはいえ,定住的な体質を著しく強めるにいたった。鍛冶・鋳物師等のさまざまな職能民が集住する村落もその間に成立してくるが,穢(けがれ)の観念の社会の深部への浸透もあって,その中の一部の職能民に対する賤賊視,差別が固定化しはじめ,根拠とする村落を持っていても,遍歴・漂泊をもっぱらにする一部の商人,芸能民,宗教者,さらに安定した根拠を持たぬ漂泊民は,全体としてこうした定住民の社会からの〈はずれ者〉として,多少と賤視された扱いをうけるようになってきた。
《融通念仏縁起絵巻》が鹿杖を担ぎ,鹿皮の衣を着た鉦たたき,簓(ささら)を摺る放下僧,覆面をした癩の病にかかった人,猿曳,鉢たたきをまとめて描き,《三十二番歌合》が千秋万歳(せんずまんざい),絵解(えとき),猿曳,こも僧,鉦たたき,胸たたき等を登場させているように,このような漂泊民をまとめてとらえる動きがでてくるのも,こうした状況の変化を背景にしている。一休宗純が《自戒集》で〈商人,唱門士,坂者,強党,異類異形〉といい,1604年(慶長9),方広寺大仏の前での施行(せぎよう)に集まった人々を《祭礼記》が〈乞食,非人,鉢拱,唱師士,猿使,盲人,居去,腰引,物イハズ,穢多,皮剝,諸勧進之聖〉と一括し,これらすべてを〈イルイ異形,有雑無雑〉といったように,漂泊民を〈異類異形〉と見る見方も固まってくるが,この記録がとくに意識せずにこうした差別的言辞を無神経に使っている点に,事態の深刻さが端的に現れているといってよい。
江戸時代に入ると,こうした漂泊民に対する社会の扱い方は,いっそう,固定化,体制化されるが,一面,江戸後期,山伏,座頭,瞽女(ごぜ),虚無僧(こむそう)等に対する酒代,初穂,合力泊り分などは村落の村入用から支出,負担されるのがふつうであったように,漂泊民の迎え方も慣習的に固定化した。〈異人〉歓迎の習俗はこうした形で長く生きつづけているのであるが,こうした差別の中で,漂泊する芸能民・宗教者たちによって,長い伝統のある芸能が保持され,さらに意識的な漂泊,さまざまな形での旅の中で,新たな文学,芸能,絵画等が創造されていったことも見落としてはなるまい。また一揆する百姓たちが,蓑笠を着た漂泊民の衣装を意識的にまとった事実も見逃すことはできない。
そして現代,高度成長期以後,また大きく体質を変えた日本の社会の中で漂泊民の問題は新しい角度から見直されつつあるのである。
→漂海民
執筆者:網野 善彦
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