岩出村(読み)いわでむら

日本歴史地名大系 「岩出村」の解説

岩出村
いわでむら

[現在地名]栃木市岩出町

泉川いずみがわ村の南、永野ながの川右岸より太平おおひら山頂部にかけて立地する。東は薗部そのべ村、北は大皆川おおみながわ村。村の東部角道かくどう山、西部飯盛いいもり山があり、角道山の地に延びる山稜北端にあるいわ山は、山頂に熊野神社を祀ることから熊野山ともいう。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳では田一八三石余・畑一五三石余で幕府領。ただし都合高は輪王寺本では二八八石余とある。寛文四年(一六六四)の武蔵岩槻藩領知目録に村名がみえる。元禄一二年(一六九九)より皆川藩米倉氏領(「米倉氏系譜」神奈川県米倉五郎蔵)元禄郷帳でも同藩領。享保七年(一七二二)米倉氏が武蔵六浦むつら(現神奈川県横浜市金沢区)に陣屋を移したことにより同藩領。


岩出村
いわでむら

[現在地名]いわき市小名浜岩出おなはまいわで小名浜玉川町おなはまたまがわまち

藤原ふじわら川と矢田やだ川に挟まれた地域にあり、西は野田のだ村・下船尾しもふなお村、北は金成かなり村、東は林城りんじよう村。享徳三年(一四五四)七月一一日の道金譲状(岡本元朝家蔵文書)によれば、金成村の四至のうちに「にしハゆわてをかきつり」とみえる。磐前いわさき郡に属した。近世領主変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に「いはて村」とみえ、高一〇二石余。


岩出村
いわでむら

[現在地名]玉城町岩出

宮川が伊勢平野に出た左岸にある。東は宮川を隔てて佐八そうち(現伊勢市)に対している。岩手とも記されるが、河岸は浸食され岩出がふさわしい。長者ちようじやヵ淵の深淵がある。慶長四年(一五九九)五月九日の廊之坊諸国旦那帳(潮崎稜威主文書)に「岩出三郷」とみえる。「伊勢名勝志」は「往昔神宮祭主ノ居住セシ処ナリ」と記す。祭主大中臣輔親が長暦二年(一〇三八)に着任して以来、武家の神領侵略を受ける天正―文禄(一五七三―九六)頃まで約五〇〇年の間祭主が官邸を構えた地である。岩出城跡があり、「勢陽雑記」に「古城の跡」と記される。


岩出村
いわでむら

[現在地名]君津市岩出

戸崎とざき村の南、小櫃おびつ川中流左岸に位置する。西は上総丘陵稜線を越え周淮すえ法木ほうき村へ通じる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に岩手村とあり、高一一三石。元禄郷帳では高一二一石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高一三七石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。


岩出村
いわでむら

[現在地名]金沢市岩出町

堅田かただ村の北西に位置。南を小原おはら越が通る。正保郷帳によれば高一四〇石余、田方六町四反余・畑方二町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一五三石、免五ツ四歩、小物成は山役四匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数四・百姓数五(高免付給人帳)。安政二年(一八五五)の高は一一三石余、家数一一・人数七七(「高免家数人数等書上」亀田文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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