岩清水村(読み)いわしみずむら

日本歴史地名大系 「岩清水村」の解説

岩清水村
いわしみずむら

[現在地名]上田市大字殿城とのしろ字岩清水

殿城でんじよう山の西側中腹(八〇〇―八五〇メートル)の村。東は山林を隔てて東田沢ひがしたざわ村(現小県郡東部町大字かのう)、西は山麓矢沢やざわ村、南と北もそれぞれ山麓のもり村・赤坂あかさか村と境をなす。縄文土師須恵などの土器も出土し、古くから人が住んでいたと推定される。

集落は下村(大村)と、五〇メートルほど登った上村うちうね)がある。大村東端にある清水せいすい寺の門前に清水が湧き出し、これを元清水または、上井戸と称し、村の中央部にも厳島神を祀った湧水があって、西の清水と称し、岩清水の名はこれから生れたと伝えられる。村の東北に本御堂もとみどうとよぶ地籍があり、五輪塔が累々として残り、五輪原ごりんはらの称がある。


岩清水村
いわしみずむら

[現在地名]矢巾町岩清水

北谷地きたやち(三三八・五メートル、不動堂山)南東麓に位置し、北は北伝法寺きたでんぽうじ村・室岡むろおか村、東・西・南は南伝法寺村(現紫波町)正保国絵図に村名がみえ、高一七二石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高五二四石余、七ヵ年平均の免四ツ一分六厘九毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方四九一石余・畑方三九石余。「邦内郷村志」では蔵分二五五石余・給分二七六石余、家数三七、馬六二。


岩清水村
いわしみずむら

[現在地名]戸沢村岩清水

津谷つや村の東、蛇行するさけ川左岸に位置する。開村は升形ますがた(現新庄市)柴山を京都浪人山科三河が開いたことに始まるとの伝承があり、八幡神社境内に正徳三年(一七一三)銘の三河頌徳碑が建つ。一村として独立した年代は明らかではないが、新田本村鑑によれば元禄一三年(一七〇〇)南西方蔵岡くらおか村から高二六六石余を分知され、升形地内の開発分と合せ高四三八石余となったとみえることから、同年頃のことと思われる。当初は蔵岡村の枝村扱いであった。明和三年(一七六六)には高五六八石余、うち田方四七八石余、反別四七町三反余、うち田方三四町三反余(吉村本村鑑)


岩清水村
いわしみずむら

[現在地名]大宇陀町大字岩清水

松山まつやま町東方、ささ峠東北部に位置する谷間村落。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳や三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「石清水」の荘名を記す。

慶長郷帳による村高七八八・八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一八九五)幕府領となる。元禄検地により村高は六三二・六九二石と減石。宝永二年(一七〇五)上岩清水村、下岩清水村に分離、さらに享保二年(一七一七)三月、上岩清水村から中岩清水村が分離した。


岩清水村
いわしみずむら

[現在地名]一戸町出ル町いずるまち

岩清水川に沿う山間小村。西は出ル町村、北は泉沢いずみさわ村。「内史略」の「往古九戸政実領知二万石」のうちに村名がみえる。正保国絵図に村名がみえ、高四一石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高三石余とあり、七ヵ年平均の免は一ツ一分一毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方六三石余・畑方一七石余。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高五八石余・給所高四五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android