日本歴史地名大系 「川俣」の解説
川俣
かわまた
江戸時代の
江戸時代、当地は相馬藩・二本松藩・福島藩に囲まれ、それぞれに街道が通じる交通の要衝であった。元禄―宝永(一六八八―一七一一)頃の小手郷村々書上帳(高橋家文書)には「川又と申儀ハ飯坂、鶴田、小綱木、五十沢、此四ケ村相名に御座候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
江戸時代の
江戸時代、当地は相馬藩・二本松藩・福島藩に囲まれ、それぞれに街道が通じる交通の要衝であった。元禄―宝永(一六八八―一七一一)頃の小手郷村々書上帳(高橋家文書)には「川又と申儀ハ飯坂、鶴田、小綱木、五十沢、此四ケ村相名に御座候」とある。
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福島県中通り北部、伊達郡(だてぐん)にある町。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)富田(とみた)、福田、小島(おじま)、飯坂(いいざか)、小綱木(こつなぎ)、大綱木、山木屋(やまきや)の7村と合併。町域は阿武隈(あぶくま)高地西縁の丘陵地にあり、古来小手保(おでほ)(小手郷(おでごう))とよばれたが、川俣の市街は広瀬川上流の小盆地内にあり、地形的にもこの地方の中心である。国道114号と349号が交差し、JR東北本線福島駅、松川駅(福島市)からバス路線がある。古くから絹織物業が盛んで、養蚕が主要産業であった。明治以降はアメリカ向け軽目羽二重(かるめはぶたえ)の産地となった。第二次世界大戦後は化合繊維織物が多くなり、縫製、電気機器などの工場も立地した。絹市(きぬいち)の行事が行われている。農業は米、葉タバコ、畜産と多彩。面積127.70平方キロメートル、人口1万2170(2020)。
[渡辺四郎]
〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では死者29人、住家全壊28棟・半壊30棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。あわせて東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染によって町域東南の山間部が避難指示区域(のちに避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域に再編)となったが、2017年に避難指示は解除された。なお、2016年には役場新庁舎が開庁している。
[編集部 2019年10月18日]
『『川俣町史』全3巻(1976~1982・川俣町)』
福島県北東部,伊達郡の町。人口1万5569(2010)。福島市の南東,阿武隈高地西斜面に位置する。周囲を山に囲まれ,耕地は山間の傾斜地に多く,標高500mをこえるものも少なくない。中心の川俣は江戸時代に幕府の代官所が置かれた地で,古くから養蚕,絹織物の産地として栄え,生糸や羽二重をあつかう2・7の六斎市が立っていた。明治以降も川俣紡織場,川俣製糸会社が設立され,生糸を扱う商社もでき,海外にも輸出されたが,第2次大戦後,化学繊維の登場により生産は激減した。農業は近年,米作,養蚕から畜産や葉タバコなどの工芸作物の生産に比重を移しており,特に農畜産物の加工業が成功している。国鉄川俣線が通じていたが,1972年廃止された。
執筆者:佐藤 裕治
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…周囲を山に囲まれ,耕地は山間の傾斜地に多く,標高500mをこえるものも少なくない。中心の川俣は江戸時代に幕府の代官所が置かれた地で,古くから養蚕,絹織物の産地として栄え,生糸や羽二重をあつかう2・7の六斎市が立っていた。明治以降も川俣紡織場,川俣製糸会社が設立され,生糸を扱う商社もでき,海外にも輸出されたが,第2次大戦後,化学繊維の登場により生産は激減した。…
※「川俣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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