川原寺跡(読み)かわらでらあと

日本歴史地名大系 「川原寺跡」の解説

川原寺跡
かわらでらあと

[現在地名]明日香村大字川原

川原かわはら集落の東、飛鳥川左岸にあった古代寺院。現在、仏陀山東南院弘福ぐふく寺と号する真言宗豊山派の寺が残り、飛鳥朝に大官だいかん大寺・飛鳥寺(現明日香村)とともに三大寺の一であった川原寺を引継ぐ。本尊十一面観音。「延喜式」玄蕃寮では弘福寺として十五大寺の一つとされている。寺宝の木造持国天・多聞天立像は藤原時代の作で国指定重要文化財。ほかに十二神将像(藤原時代)一一体を安置する。弘福寺本堂付近に礎石が残り、南大門・中門・塔・中金堂・西金堂・講堂・僧房跡などが検出され、川原寺跡(国指定史跡)の復原整備が行われている。現本堂は川原寺中金堂跡にあり、いわゆる瑪瑙石といわれる礎石が存する。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔創建〕

川原寺は「日本書紀」孝徳天皇白雉四年(六五三)六月条に、故僧旻のために「画工狛竪部子麻呂・魚戸直等に命せて、多に仏菩薩の像を造る。川原寺に安置す」とみえるが、これには「或本に云はく、山田寺に在すといふ」の注が付されるため疑問が残る。しかし同書によると、天武天皇二年(六七三)三月、当寺においてわが国最初の一切経写経が行われており、天武朝での存在は確認できる。創建については、敏達天皇一三年、蘇我馬子建立説(護国寺本「諸寺縁起集」)、斉明天皇元年一〇月、飛鳥川原宮を寺としたとする説(元亨釈書、扶桑略記)、天武朝とする説(弘法大師遺告)などがある。なお「扶桑略記」は矛盾するが、弘福寺を天武天皇が建立したと記す。「日本書紀」によると天武天皇一四年八月一三日に行幸があり、衆僧に稲を施入、同年九月二四日、同天皇不予のため誦経、朱鳥元年(六八六)四月一三日、新羅客饗応のため当寺の伎楽を筑紫に運び、皇后宮の私稲五千束を寺に施入、同年五月二四日、天皇危篤により薬師経を説かしめ、六月一九日、百官を寺に集めて燃灯供養、九月四日には親王以下諸臣を集めて病気平癒を祈願せしめるなど、天武天皇の崇敬がことに厚かったことが推定できる。

川原寺跡
かわはらじあと

長岡京造営に関連して建立された京内の寺で、現存しない。長岡京左京四条三坊に位置する(現京都市伏見区羽束師菱川町)。現地形の観察によると寺跡は東西三町、南北三町の正方形の範囲であると推定される。平安京遷都後の大同元年(八〇六)、平城天皇即位にあたり伊予親王(桓武天皇第三皇子)は藤原仲成の陰謀の犠牲となり、母藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、自殺した。「類聚国史」に大同五年七月一三日「遣使於川原・長岡両寺誦経、聖躬不予也」とみえ、同年同月二九日にも「奉為崇道天皇、於川原寺、奉写法華経一部」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「川原寺跡」の解説

かわらでらあと【川原寺跡】


奈良県高市郡明日香村川原にある寺院跡。現在は弘福(ぐふく)寺が建つ。飛鳥川左岸近くの丘陵裾部に位置し、西南から東北に広がる谷を埋め立てた低台地に所在する。寺が創建された年代は明らかではないが、天智朝から天武朝にかけて造営され、持統朝には四大寺の一つに数えられた大寺であることから、1921年(大正10)に弘福寺境内を含む寺域の中心部が国の史跡に指定された。1957年(昭和32)から3次にわたって発掘調査が行われた結果、伽藍(がらん)配置などが解明されたため、それを受けて、僧坊跡、北方建物跡などを含め当初の境内全部と橘寺との間の古道、および寺領であった飛び地の亀石などが、1966年(昭和41)と1988年(昭和63)に追加指定された。伽藍(がらん)配置は1塔2金堂を有する川原寺式と呼ばれるもので、中軸線上に南から南大門、中門、中金堂、講堂が並び、中門から中金堂に取り付く回廊に囲まれた内庭に塔と西金堂が向き合い、講堂の周囲を僧坊が取り囲む形となる。1972年(昭和47)から1974年(昭和49)には、伽藍中枢部の大部分(中金堂と西僧坊を除く)の遺構の規模や配置がわかるように整備された。近畿日本鉄道橿原線ほか橿原神宮前駅からコミュニティバス「川原」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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