日本歴史地名大系 「川原寺跡」の解説
川原寺跡
かわらでらあと
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
〔創建〕
川原寺は「日本書紀」孝徳天皇白雉四年(六五三)六月条に、故僧旻のために「画工狛竪部子麻呂・魚戸直等に命せて、多に仏菩薩の像を造る。川原寺に安置す」とみえるが、これには「或本に云はく、山田寺に在すといふ」の注が付されるため疑問が残る。しかし同書によると、天武天皇二年(六七三)三月、当寺においてわが国最初の一切経写経が行われており、天武朝での存在は確認できる。創建については、敏達天皇一三年、蘇我馬子建立説(護国寺本「諸寺縁起集」)、斉明天皇元年一〇月、飛鳥川原宮を寺としたとする説(元亨釈書、扶桑略記)、天武朝とする説(弘法大師遺告)などがある。なお「扶桑略記」は矛盾するが、弘福寺を天武天皇が建立したと記す。「日本書紀」によると天武天皇一四年八月一三日に行幸があり、衆僧に稲を施入、同年九月二四日、同天皇不予のため誦経、朱鳥元年(六八六)四月一三日、新羅客饗応のため当寺の伎楽を筑紫に運び、皇后宮の私稲五千束を寺に施入、同年五月二四日、天皇危篤により薬師経を説かしめ、六月一九日、百官を寺に集めて燃灯供養、九月四日には親王以下諸臣を集めて病気平癒を祈願せしめるなど、天武天皇の崇敬がことに厚かったことが推定できる。
川原寺跡
かわはらじあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報