江戸後期の長崎の洋風画家。通称登与助,字は種美,聴月楼主人ともいい,のち田口氏を称した。石崎融思に絵を学んだが,1823年(文政6)に来朝したシーボルトに画才を見いだされ,オランダ商館への出入りも許された。25年にはシーボルトがジャワから呼びよせたオランダ人画家フィレネーフェK.H.Villeneuveに洋風画法を学ぶ。26年にシーボルトの江戸参府にも随行し,日本の風景,風俗,諸職,生活用具,動植物などの写生図を描くなど,シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ,今日オランダのライデン国立民族学博物館に伝わる。28年,シーボルト事件のとき,慶賀も連座し,また42年(天保13)にその作品が国禁にふれ,長崎から追放された。その後再び同地にもどり,75歳まで生存していたことがわかっている。西洋画法を加味した写生図や《ブロンホフ家族図》などの肖像画,《日本人の一生図巻》などがある。
執筆者:成瀬 不二雄
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(三輪英夫)
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幕末の長崎の洋風画家。通称登与助(とよすけ)、字(あざな)は種美(しゅび)、号は慶賀、聴月楼(ちょうげつろう)主人といい、のち田口氏を称した。町家出身で、石崎融思(ゆうし)に絵を学び、出島のオランダ商館に出入りを許される絵師となった。1823年(文政6)ドイツ人医師シーボルトが来朝すると、多量の動植物、風景、風俗の写生を依頼された。それらは今日オランダのライデン国立民族博物館に所蔵され、なかにはシーボルト著『ニッポン』の挿絵となったものもある。28年のシーボルト事件に連座し、のち作品が国禁に触れ長崎から追放されたこともある。60年(万延1)75歳までは生存していたが、没年はさだかでない。
[成瀬不二雄]
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