布勢郷(読み)ふせごう

日本歴史地名大系 「布勢郷」の解説

布勢郷
ふせごう

湖山こやま池東岸を中心とする平野部にあった、古代の布勢郷を継承した中世郷。正平年間(一三四六―七〇)と推定される年未詳九月三〇日の平惟長奉書(観心寺文書)によると、「因幡国々衙領布勢郷」の年貢のうち二〇果が新御願講問供料として観心かんしん(現大阪府河内長野市)の寺僧に宛行われた。だがやがて同郷の代りとして賀茂かも(現不明)の年貢のうち八〇〇疋が同寺に与えられている(年未詳九月一八日「宗弘奉御教書」同文書)。供料を宛行ったのは南朝方に属する人物と考えられるが詳細は不明。

室町時代には守護山名氏の守護所が置かれ、守護領となったと考えられる。

布勢郷
ふせごう

和名抄」諸本に訓はない。当郷の比定地については見解が分れている。「大日本地名辞書」は旭川の支流目木めき川上流の小盆地、現苫田とまたとみ一帯とする。一方「日本地理志料」は旭川上流の現真庭まにわ湯原ゆばら町から同郡八束やつか村にかけてに比定する。この相違は、平安時代末から中世にかけて存在した布施社、布施庄の比定にかかわるところが多い。布施社は大治三年(一一二八)一二月の平正頼譲状(仁和寺文書)に「美作国布勢社」とあり、以後室町初期にかけて仁和寺文書などに散見する。

布勢郷
ふせごう

出雲国風土記」「和名抄」に記載される仁多郡布勢郷の郷名を継承する中世の郷。仁多郡の北西部に位置する。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の遷宮儀式の流鏑馬一五番のうち第四番に「布施郷社、合赤江郷、山代郷、福富保、此等地頭勤之」とみえ、当郷および布施社領に置かれた地頭らが流鏑馬役を勤めている。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一八番の相撲の項に「布施郷五丁五反三百歩神保二郎」、舞に「布施社八丁七反神保小四郎」とあり、神保氏が地頭であった。

布勢郷
ふせごう

「和名抄」高山寺本は郷名の記載を欠き、東急本は訓を欠く。天慶三年(九四〇)九月二日の因幡国高草郡公文預東大寺領高庭庄坪付注進状(東南院文書)に「布勢郷」とみえ、郷内に高庭たかば庄の庄田六町五反余があり、当郷が高庭庄の散在する庄田の中心地となっている。庄田所在地の北二条土浦里・北三条草尾里・岡田里、北四条虹田里・北五条由良里・北七条蓼田里・北八条蓼田里の地名は伝わっていない。この注進状にみえる高庭庄八町一反余は、天平神護元年(七六五)に先墾田長国造難磐(勝磐)の妻子が欠物分として東大寺に沽却した墾田五町八反余をもとに開発されたものである(承和九年七月二一日「因幡国高庭庄預僧霊俊解」同文書など)

布勢郷
ふせごう

「和名抄」所載の郷。同書名博本が「有勢」とするのは誤記。諸本とも訓を欠くが、フセであろう。平城京二条大路跡出土木簡に「隠伎国海部郡布施郷大浦里」とあり、天平七年(七三五)阿曇部奈々都が調として短鰒を貢進している。

布勢郷
ふせごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本ともに訓はない。「播磨国風土記」に関連する地名はみえない。「峯相記」に「天平宝字七年ニ当国揖保郡布施郷ニ五足ノ犢子ヲ生ス、子細ヲ奏ス、異賊責来テ大兵乱ノ由占申」とあり、翌年新羅軍船が播磨に到来し、藤原貞国なる者が異賊を追討したとの伝承を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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