常陸坊海尊(読み)ヒタチボウカイソン

デジタル大辞泉 「常陸坊海尊」の意味・読み・例文・類語

ひたちぼうかいそん〔ひたちバウカイソン〕【常陸坊海尊】

秋元松代戯曲。昭和35年(1960)にラジオドラマとして放送され、第15回芸術祭賞ラジオ部門芸術祭奨励賞を受賞。戯曲として加筆修正し、昭和39年(1964)に「マニラ瑞穂記」とあわせて刊行。第5回田村俊子賞を受賞。昭和42年(1967)には、劇団演劇座初演。この脚本により、第23回芸術祭賞演劇部門芸術祭賞を受賞した。

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改訂新版 世界大百科事典 「常陸坊海尊」の意味・わかりやすい解説

常陸坊海尊 (ひたちぼうかいそん)

海尊を快賢,荒尊とするものもある。源義経家臣。《源平盛衰記》巻四十二,延慶本《平家物語》第六末にその名が見え,前者ではもと叡山の僧であったとする。《義経記》では,もと園城寺の僧であったとし,義経都落ちに同道して弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍し,衣川での義経の最期には,朝から物詣でに出て帰らず居合わせなかったとされる。同書では誰よりも先に逃げようとする海尊が,ほかに2,3ヵ所書かれていて,その背後に逃げ上手,生き上手としての海尊像がすでに成立していたものと思われる。近世に東北地方に流布していた《清悦物語》では,海尊は不老長寿であったと伝えるところからすると,東北地方では,《義経記》と同材の物語が漂泊する語り手によって語られていて,早くから海尊自身の懺悔譚の傾向の強い語りがあったものと考えられている。《本朝神社考》《狗張子》《義経勲功記》などの近世の書物には,残夢あるいは残月と称する老翁が,不老長寿で源平合戦のことをよく知っていて,人々に話すので,尋ねてみると実は海尊であったとするものがあり,東北地方の地誌類にも同類の記事をときに見かける。これらの書物では,不老長寿の原因は枸杞(くこ),赤魚の肉,富士山の岩から湧出する飴のようなものを食したため,などとされ,ときには人羹(にんかん)魚の肉ともされる。若狭の八百比丘尼(はつぴやくびくに)/(やおびくに)が人魚の肉を食して不老長寿を得たとする伝説と一脈通じるところがある。伝説としては,茨城県稲敷市の旧桜川村阿波(あば)の大杉神社や宮城県塩釜市岩切の青麻(あおそ)神社に伝わるものが有名だが,青森,岩手,宮城,山形などの各県を中心に,東日本一帯にかなり広く分布している。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常陸坊海尊」の解説

常陸坊海尊 ひたちぼう-かいそん

平安後期-鎌倉時代の伝説的人物。
源義経の家臣。比叡(ひえい)山または園城(おんじょう)寺の僧ともいわれ,「源平盛衰記」「義経記」などにその名がみえる。弁慶(べんけい)とともに義経の都落ちにしたがうが,衣川の合戦をいきのび,不老長寿をえて源平合戦をかたりつたえたとされる。

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朝日日本歴史人物事典 「常陸坊海尊」の解説

常陸坊海尊

生年:生没年不詳
平安末期の伝説的人物。荒尊とも。園城寺僧,また比叡山僧といわれる。源義経旧来の家臣だが,文治5(1189)年の衣川合戦に参戦せず失踪する。東北地方中心に生存説が多い。仙人となり,あるいは人魚の肉などを食して不老長寿となり,源平合戦や義経の物語を語るという。

(櫻井陽子)

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