日本大百科全書(ニッポニカ) 「文学論争」の意味・わかりやすい解説
文学論争
ぶんがくろんそう
文学の本質、内容、形式、手法などをめぐって戦わされる論争。文学論争は、新旧世代の交替期や文運隆盛時代に多発する傾向がある。
[大久保典夫]
明治期
日本の近代文学史上最初の論争の季節は、いわゆる近代文学成立期の1890年(明治23)ごろで、逍鴎(しょうおう)論争、またの名を没理想論争とよばれるものを嚆矢(こうし)とする。これはわが近代文学の発足期にあたっての大論争で、文壇の視聴をそばだたしめたが、論争自体は発展がなく、不毛に終わった。簡単にいえば、没理想とか没却理想とか、意味ありげな概念語を無限定に駆使する坪内逍遙(つぼうちしょうよう)の曖昧(あいまい)さを、戦闘的な啓蒙(けいもう)家をもって任ずる森鴎外(おうがい)が、ハルトマンの美学を援用して根底的に批判したもので、その立場の対立自体が深められ、または解決に向かうという性質のものでなかった。同時期、鴎外対石橋忍月(にんげつ)の『舞姫』論争があり、続いて、山路愛山(あいざん)対北村透谷(とうこく)の人生相渉(そうしょう)論争があるが、「文章即ち事業たり」とよぶ愛山の功利主義的文学観に対し、文学を「空の空たる事業」といい、「嗚呼(ああ)文士、何すれぞ局促(きょくそく)として人生に相渉るを之(こ)れ求めむ」と所信を述べた透谷の姿勢が光っている。日露戦争直後の自然主義文学運動は、日本の近代リアリズムの方向を決定づけたが、運動内部でも、田山花袋(かたい)の平面描写に対して岩野泡鳴(ほうめい)が一元描写を唱え、外部からは、田中王堂(おうどう)や安倍能成(よししげ)らの島村抱月(ほうげつ)批判が相次いだ。社会主義的観点からの石川啄木(たくぼく)の日本自然主義批判の論文『時代閉塞(へいそく)の現状』(1910)は秀抜。
[大久保典夫]
大正期
理想主義、人道主義という反自然主義の旗を掲げて登場した『白樺(しらかば)』派が最盛期を迎えるのは1916、1917年(大正5、6)ごろである。その中心人物の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)に対し『自然主義前派の跳梁(ちょうりょう)』(1916)を書いてもっとも露骨な反感を投げ付けたのが生田長江(いくたちょうこう)だが、それにまっこうから反駁(はんばく)し、白樺派を擁護することで自然主義を痛烈に批判したのが和辻哲郎(わつじてつろう)で、広津和郎(ひろつかずお)もまた、志賀直哉(なおや)と白樺派の文学史的評価を決定させた『志賀直哉論』(1919)を書く。広津和郎は、「第四階級に対しては無縁の衆生(しゅじょう)の一人」と自己規定した『宣言一つ』(1922)の有島武郎(ありしまたけお)に対し執拗(しつよう)に反論を加え、『宣言一つ』論争の立役者になり、その主張の延長線上に、人生の隣としての小説の独自性を高く評価した『散文芸術の位置』(1924)を書き、『散文芸術論争』の導火線となる。これと隣接した論争に、菊池寛(かん)と里見弴(とん)との内容的価値論争があり、続いて関東大震災後の1925年ごろ、新感覚派とプロレタリア文学という新興二文学に挟撃された既成文壇の側で盛んに論議されたいわゆる心境小説論争がある。
[大久保典夫]
昭和期
昭和初頭のモダニズム文学運動の先駆としての新感覚派と既成文学との応酬は、横光利一(よこみつりいち)の文章表現をめぐる片岡鉄兵と広津和郎・生田長江との対立で代表され、プロレタリア文学と既成文壇との文学観の相違を浮き彫りにしたものに、青野季吉(すえきち)と正宗白鳥(まさむねはくちょう)との間で交わされた文芸批評方法論争がある。昭和初頭は、プロレタリア文学運動の全盛期で、それにかろうじて対抗できたのは、若き芸術派のモダニズム文学だけである。プロレタリア文学陣営の論争として、中野重治(しげはる)と蔵原惟人(くらはらこれひと)との芸術大衆化論争があり、続いて、マルクス主義文学では芸術的価値が政治的価値に従属するとした平林初之輔(はつのすけ)の所説に対して、青野季吉、勝本清一郎(かつもとせいいちろう)、大宅壮一(おおやそういち)、蔵原惟人、中野重治らが応酬した空前の大論争といっていい芸術的価値論争がおこる。以上の内容本位のプロレタリア文学理論に対して、形式優位の文学観の提示が、形式主義文学論争における横光利一、中河与一(なかがわよいち)ら新感覚派グループの主張にみられよう。そして、これらに続く論争の季節が、プロレタリア文学運動敗退後の1935年(昭和10)前後で、まず、小松清によって紹介されたフランス知識階級の新たな動きに呼応しての舟橋聖一(ふなはしせいいち)、青野季吉、大森義太郎(よしたろう)らによる行動主義論争がある。それと重なって、貴司山治(きしやまじ)と中野重治との論争に代表される「転向」論争があった。とりわけ注目されるのは、大正末期から続く純文学作家の危機意識の顕在化ともいえる純粋小説論争で、「純文学にして、通俗小説」という横光利一の純粋小説の提唱に、久米(くめ)正雄が「純文学余技説」を唱え、また、中村光夫(みつお)が優れた見解を披瀝(ひれき)している。
この時期、トルストイの家出をめぐって、正宗白鳥と小林秀雄との間に「思想と実生活」論争があったが、続く第二次世界大戦中は「国民文学」論争が注目されるぐらいである。戦後の文運隆盛時代の論争のはしりは「第二芸術」論争で、現代俳句を第二芸術とよぶ桑原武夫(くわばらたけお)の主張に、ジャーナリズムが異常な反響を示し、短歌をも含めて百家争鳴の感を呈し、土屋文明(ぶんめい)、釈迢空(しゃくちょうくう)(折口信夫(おりくちしのぶ))、加藤楸邨(しゅうそん)ら実作者の発言に傾聴すべきものがある。「政治と文学」論争も、戦争責任の問題を含めた「政治と文学」との相関関係をめぐる大論争で、民主主義文学陣営の中野重治と戦後派文学の擁護者の荒正人(まさひと)、平野謙(けん)との間で活発な応酬があった。アルベール・カミュの『異邦人』をめぐる広津和郎と中村光夫の意見の対立(『異邦人』論争)も話題になったが、いわゆるチャタレイ裁判(チャタレイ事件)をめぐる『チャタレイ夫人の恋人』論争は、広く世論を巻き込んだ点で論争史上新生面を開いたといってよく、続く国民文学論争も、第二次世界大戦下のそれが右翼的な国策文学を志向したのと正反対に、左翼的・人民的なものへの志向を内に含んでいた点で、戦後の解放と民主主義の定着という事実なくしてありえぬ論争であったといえよう。
続いて、いわゆる戦後世代の登場を強く印象づけ純文学概念を一変させた石原慎太郎『太陽の季節』(1955)についての既成文壇と擁護派との論争、大岡昇平「『蒼(あお)き狼』は歴史小説か」に始まる井上靖(やすし)の歴史小説の方法をめぐる『蒼き狼』論争、平野謙の「純文学変質」説をめぐる「純文学」論争、佐々木基一(きいち)の「『戦後文学』は幻影だった」に始まる「戦後文学」論争、戦後第6番目の新人群「内向の世代」の脱イデオロギー的傾向を批判した小田切秀雄(おだぎりひでお)の言説をめぐる「内向の世代」論争、江藤淳が辻邦生(つじくにお)・丸谷才一らを「フォニー」(偽物)として批判したことへの発言・反論をめぐる「フォニー」論争などがあったが、1980年代に「日本文学の流れの断絶」ということが盛んにいわれ、以後、文学論争はほとんど終焉(しゅうえん)したといっていい。
[大久保典夫]
『平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史』上中下(1957~1958・未来社)』▽『大久保典夫著『昭和文学史の構想と分析』(1971・至文堂)』▽『臼井吉見監修『戦後文学論争』上下(1972・番町書房)』▽『臼井吉見著『近代文学論争』上下(1975・筑摩書房)』▽『大久保典夫著『物語現代文学史 1920年代』(1984・創林社)』▽『津田孝著『明日の文学の広場へ――批評と文学論争』(1988・新日本出版社)』▽『佐藤静夫著『昭和文学の光と影』(1989・大月書店)』▽『大久保典夫著『現代文学の風景』(1992・高文堂出版社)』▽『祖父江昭二著『近代日本文学への射程――その視角と基盤と』(1998・未来社)』