生没年不詳。平安中期の武将。桓武(かんむ)天皇の孫高見(たかみ)王の子。初め高望(たかもち)王として諸王の列にあったが、889年(寛平1)、平朝臣(あそん)姓を賜り臣籍に降(くだ)り、上総介(かずさのすけ)として東下(とうげ)したという。『平家勘文録(へいけかんもんろく)』によれば、民部卿宗章(みんぶきょうむねあき)朝臣(実在不詳)の謀反に際し、宗章を追罰し、その功により叙爵(じょしゃく)・賜姓(しせい)・任官(にんかん)が実現したと伝える。「平氏系図」(『系図綜覧(そうらん)』所収)は高望の任(にん)常陸大掾(ひたちだいじょう)の履歴を伝え、また、良望(よしもち)(国香(くにか))、良兼(よしかね)、良持(よしもち)(良将(よしまさ))、良孫などの子息らも鎮守府(ちんじゅふ)将軍、常陸大掾、上総介、下総(しもうさ)介として任官を遂げ、常総の地にかなりの権力基盤を形成していった。桓武平氏流東国武士団の基礎が、高望の入部によって固められたといえるが、その所伝は多くが不詳である。
[糸賀茂男]
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(朧谷寿)
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生没年不詳。平安前期の官人。父は桓武天皇皇子葛原(かずらわら)親王の子高見王。高望流桓武平氏の祖。子に国香(くにか)・良持・良兼・良文らがいる。889年(寛平元)頃平朝臣(あそん)となり,上総介として下向した東国にそのまま土着したという。子孫は関東各地に広がり,坂東八平氏と称された。中央に進出して武士の棟梁となる者もあり,平清盛もこの系統からでた。
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[東国の諸平氏]
葛原親王の子高見王(高棟王の弟)の子が高望王で,彼は889年(寛平1)8月に平姓を与えられ,上総介になったことから,その子孫が東国地方に繁衍(はんえん)する基が開かれた。平高望の諸子はいずれもこの地方に勢威をふるい,それぞれの子孫が10~11世紀に東国地方の土着の豪族として勢力をひろげ,また武士化していった。現存の《尊卑分脈》以下の諸系図によれば,高望の長子国香は常陸大掾・鎮守府将軍に任命され,その弟良兼は下総介,良文は武蔵守,良持は下総介,良茂は常陸少掾・下総介に任命されているが,彼らはそれぞれ独立して土地を開発し農業経営を行って農民支配を拡大するとともに,律令的社会秩序の弛緩という時代の趨勢の中で武力を組織していった。…
…826年(天長3)上総,上野と並んで親王任国となり,遥任(ようにん)の国守(太守)に親王が任ぜられることになった。桓武天皇の曾孫高望(たかもち)王(のち賜姓により平高望となる。桓武平氏の祖)が9世紀の末ごろ上総介として赴任し,そのまま土着して東国地方に勢力を植えつけ,その子国香(くにか)は常陸大掾(だいじよう),鎮守府将軍となってこの地方に力を伸ばしたが,935‐940年(承平5‐天慶3)一族の内紛がこじれて,下総,常陸を主たる舞台とする平将門(まさかど)の乱が起こり,京都の貴族たちに衝撃を与えた。…
※「平高望」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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