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度会行忠 わたらいゆきただ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

度会行忠
わたらいゆきただ

[生]嘉禎2(1236)
[没]嘉元3(1305).12.17.
鎌倉時代後期の神道家。父は度会行継。建長3 (1251) 年伊勢神宮外宮禰宜,嘉元2 (1304) 年一の禰宜となり,西河原長官と称された。神宮伝来の信仰と儀式に老荘思想を混交した独自の神道論を展開し,伊勢神道の形成に大きな役割を果した。

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デジタル大辞泉の解説

わたらい‐ゆきただ〔わたらひ‐〕【度会行忠】

[1236~1305]鎌倉後期の神道家。伊勢外宮の禰宜(ねぎ)。「神道五部書」を祖述、伊勢神道の基礎を築いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

度会行忠 わたらい-ゆきただ

1236-1306* 鎌倉時代の神職。
嘉禎(かてい)2年生まれ。度会行継(ゆきつぐ)の子。嘉元(かげん)2年伊勢神宮外宮(げくう)の一禰宜(いちのねぎ)(長官)となる。弘安(こうあん)8年関白藤原兼平の命で「伊勢二所太神宮神名秘書」をあらわす。伊勢(度会)神道の基礎をきずく。和歌をよくした。嘉元3年閏(うるう)12月27日死去。70歳。家名は西河原。著作に「古老口実(くじつ)伝」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

度会行忠

没年:嘉元3.閏12.27(1306.2.11)
生年:嘉禎2(1236)
鎌倉後期の伊勢神宮(外宮)の祠官で中世伊勢神道形成期の学者。度会(西河原)行継の子で祖父行能の養子となる。建長3(1251)年禰宜,嘉元2(1304)年に外宮長官としての一禰宜となる。52年間におよぶ禰宜在任中の弘安8(1285)年,関白鷹司兼平 の命により,中世伊勢神道の代表的な著述,神道五部書の所説を明確にした『伊勢二所太神宮神名秘書』を選述した。伊勢神道を大成する度会家行の師であり,行忠のころから,神宮禰宜が朝廷とつながりを持つようになった。著書はほかに『古老口実伝』『心御柱記』など。<参考文献>久保田収『中世神道の研究』

(白山芳太郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

わたらいゆきただ【度会行忠】

1236‐1305(嘉禎2‐嘉元3)
鎌倉時代の神道家。伊勢神宮外宮権禰宜行継の子で,祖父行能の養嗣子となった。家のあった地名によって西河原(現,伊勢市宮後)と称した。1251年(建長3)外宮の禰宜に任ぜられ,1304年(嘉元2)に一禰宜に進んだ。神祇の古典に通じ,神宮の故実に広い知識をもっていた行忠は,老荘をはじめとするさまざまな漢籍を学び,密教の知識も吸収して,伊勢神道の教説の基礎を築いた。1285年(弘安8)に著した《伊勢二所太神宮神名秘書》1巻は,《神道五部書》を中心とする初期の伊勢神道の所説を明確にしたものとして,のちの神道家たちに大きな影響を与え,99年(正安1)ころにまとめられた《古老口実(くじつ)伝》1巻は,神宮のさまざまな問題についての度会氏の家伝をまとめたものとして,重要な書である。

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大辞林 第三版の解説

わたらいゆきただ【度会行忠】

1236~1305) 鎌倉後期の神道家。伊勢外宮の禰宜。「神道五部書」を祖述して伊勢神道を唱え、家行の先駆となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

度会行忠
わたらいゆきただ
(1236―1305)

鎌倉後期の豊受(とようけ)大神宮(伊勢(いせ)神宮外宮(げくう))の祠官(しかん)、度会神道(しんとう)の代表的な学者。権禰宜(ごんねぎ)行継(ゆきつぐ)の子として嘉禎(かてい)2年に出生。16歳で禰宜に補せられ、1304年(嘉元2)に一禰宜(いちのねぎ)に進み、西河原(にしがわら)長官と称せられた。禰宜在任53年間にわたり、翌年閏(うるう)12月27日、70歳で没した。神宮相伝の秘儀や故実(こじつ)を基にして、おそらく『神道五部書』など度会神道の主要著述を手がけたとみられる。さらにその神道思想の形成と唱道に努め、その思想はのちに度会家行(いえゆき)によって大成され、度会神道(伊勢神道)と称されるに至った。また1296年(永仁4)、内宮(ないくう)(皇太神宮)側との皇字沙汰(こうのじさた)において、その論争の指導的な役割を果たした。著作には、まず『伊勢二所(にしょ)太神宮神名秘書』1巻があげられる。同著は1285年(弘安8)末に成り、伊勢の両正宮はじめ諸宮社に祀(まつ)る祭神の神系や由緒(ゆいしょ)を概説した、神宮の貴重な文献である。序文に「夫(そ)れ日本は神胤(しんいん)なり」とあり、神国、神器、神勅をめぐるわが国の永遠性を力説している。また1300年(正安2)ごろに勘録した『古老口実伝(ころうくじつでん)』1巻は、神明の遺勅や両宮の規範、宮中勤務心得など、神宮の諸事に関する伝承性豊かな内容である。[中西正幸]
『神宮司庁編・刊『度会神道大成 前篇』(1957)』

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世界大百科事典内の度会行忠の言及

【伊勢神道】より

…ことに伊勢両宮のうち外宮(豊受大神宮)は祭神が御饌都(みけつ)神であるところから万民の食物をつかさどる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護神なることを強調して,信徒を広く集める勢いでは内宮(ないくう)をしのぐほどに立ち至ったらしい。 1282年(弘安5)内宮造営料木のことに容喙(ようかい)して外宮禰宜(ねぎ)の一人度会行忠は職を免じられたが,これを機に京都に移り住み広範な教養を身につけたらしく,自著《二所太神宮神名秘書》を亀山上皇に奏覧し,その功により87年復職した。そして96年(永仁4)注進状に〈豊受皇大神宮〉と記したことの当否をめぐって内宮側との紛争が激化したころには,〈わが陣営には《倭姫皇女世記》《宝基本記》などの貴重典籍あり〉と呼号するようになっていた。…

【偽書】より

…鎌倉時代に外宮の度会(わたらい)氏は内宮の荒木田氏と対等の地位を得るために,多くの書を渉猟して研究の結果を述作した。それを集成したのが《神道五部書》で,主として度会行忠の作と知られている。最も古い《倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)》は宣命体を用いた。…

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