伊勢神宮に基盤を置いて形成された神道説で,度会(わたらい)神道とも外宮(げくう)神道ともよばれる。鎌倉時代に形成されたものに限るときは,これを前期伊勢神道,江戸時代のに限るときは後期伊勢神道とよぶことがある。一般に鎌倉時代には各大社がその由緒をもとに,仏教や陰陽道の教説をまじえて独自の神道説を編み出そうとした。伊勢神宮でも,鎌倉初期以来武士の神領奉献,僧侶の参詣が相ついでおこなわれ,種々の刺激を受けた結果,律令制下ではもともと神宮は仏法を禁忌する定めであったにもかかわらず,鎌倉時代後期には,神宮の神徳は広大で,〈我国の仏法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉との主張が神官によりなされるに至った(《沙石集》)。ことに伊勢両宮のうち外宮(豊受大神宮)は祭神が御饌都(みけつ)神であるところから万民の食物をつかさどる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護神なることを強調して,信徒を広く集める勢いでは内宮(ないくう)をしのぐほどに立ち至ったらしい。
1282年(弘安5)内宮造営料木のことに容喙(ようかい)して外宮禰宜(ねぎ)の一人度会行忠は職を免じられたが,これを機に京都に移り住み広範な教養を身につけたらしく,自著《二所太神宮神名秘書》を亀山上皇に奏覧し,その功により87年復職した。そして96年(永仁4)注進状に〈豊受皇大神宮〉と記したことの当否をめぐって内宮側との紛争が激化したころには,〈わが陣営には《倭姫皇女世記》《宝基本記》などの貴重典籍あり〉と呼号するようになっていた。この《倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)》《造伊勢二所太神宮宝基本記》などが,後世〈神道五部書〉とよばれるものだが,ここに,神宮の古伝承をもとに,さらに外宮の神徳の種々を掲げた典籍を根拠として,いわゆる伊勢神道の教説が唱えられるようになった。
その主張する点を見ると,まず外宮の祭神御饌都神は,《古事記》《日本書紀》にみえる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や国常立神(くにとこたちのかみ)と同神であり,この神が天地開闢(かいびやく)にあたり天照大神と幽契を結んで永く天下を治めることにしたのだとして,天照大神の権威を世界観の上から基礎づけようとしている。ついで,外宮の神は水徳をつかさどり,内宮の火徳と両々あいまって人々の生活を発展させるものだが,前者はとくに万物を養い育てるの徳があるとして,食物神から生産神へと発展させて説いた。そしてこれら神格の根拠づけをするため陰陽五行説や真言密教の体系からも理論を借りている。ややおくれて1320年(元応2)に成った度会家行の《類聚神祇本源(るいじゆうじんぎほんげん)》には中国の宋学(程朱学)の文献までが引用されている。しかしこれらの教説をもとに教団が組織されることはなく,のちの吉田神道(唯一(ゆいいつ)神道)のほかは他への影響もさほど大きくはなかった。江戸時代前期に再び伊勢神宮の教説化の必要が起こり,同じく外宮の度会延佳(のぶよし)などの神道説では,儒教ことに易(えき)の理論と陰陽五行説とを採って神道の精神を説明している。これは後期伊勢神道とよばれ,近世の垂加(すいか)神道などへの影響が大きかった。
執筆者:萩原 龍夫
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中世の初期から中期にかけて、伊勢の豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮(げくう))を基盤として形成された神道説およびその流派。外宮神道とも、また外宮の神職(祠官(しかん))度会(わたらい)氏の人々が説いたので度会神道ともいう。この派の経典的な書に『天照坐(あまてらします)伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(略して『御鎮座次第記』)、『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』(御鎮座伝記)、『豊受皇太神宮御鎮座本記』(御鎮座本記)、『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)、『倭姫命(やまとひめのみこと)世記』(記は紀とも一部書く)などがあり、後年これらを「神道五部書」と総称した。それらの内容は内外両宮の起源由来を主としているが、そのなかに主張や教説を織り込んでいる。天地開闢(かいびゃく)の神々から説き起こし、天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけおおみかみ)が伊勢内外両宮に鎮座するに至る次第、様相からその神徳、両神の関係、社殿の構えや宝器などの事柄を記し、また鎮座の際、大神の託宣に従って重用な役を果たした倭姫命の業績を詳記している。そのうちの『御鎮座次第記』『同伝記』『同本記』は古来の縁起的色彩が濃く、『宝基本記』『倭姫命世記』は神道の理念や教義的言説が多い。これらには『日本書紀』をはじめ古典に拠(よ)るもののほかに独得の古伝に拠るとみられるものがあり注目される。またこれらの書が形成される意図にはおよそ二つの面が指摘される。
第一には、内宮と外宮のことを同等に説き、両神格に格差をつけず、食物の神たる豊受大神をもっとも根本的な神として位置づけ、外宮の地位を内宮に劣らず高めようとする意図がうかがわれる。第二には、古典や古伝を駆使して、天照大神やその神道は日本開闢以来、根本的な固有のものであることを示そうとしている点にある。これは当時の神仏習合、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に対する反発を暗に意味するもので、そのために神道、神、人とは何かをも簡明に説き、一種の神学、思想をなしている。この一派には、五部書に拠りつつ自説を進めた度会家行(いえゆき)、度会常昌(つねよし)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、慈遍(じへん)らがおり、仏教や儒教の説、用語も自在に応用して詳細に主張を展開した。彼らの学説は、神道史上画期的な一出発の趣(おもむき)をなし、また、中世末の吉田神道、近世初期の儒家(じゅけ)神道など後世の神道説に与えた影響も大きい。
[小笠原春夫]
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外宮神道・度会(わたらい)神道とも。鎌倉時代に伊勢神宮外宮の禰宜(ねぎ)である度会氏が唱道した神道説。典拠とする「神道五部書」は,奥書では奈良時代あるいはそれ以前の著述としているが,いずれも鎌倉初~中期に成立。神宮の起源由緒についての記述を中心とするが,儒教・仏教に対して神道が根本に位置すると主張し,また外宮が内宮に劣るものではないことを強調する。南北朝期に度会家行が「類聚神祇本源」に集大成した。伊勢神道の影響は大きく,室町末期には唯一神道(吉田神道)が成立した。
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…中でも〈祝詞〉は,重要な教典といえよう。 中世に入って神道説の形成が進むと,空海などに仮託した教典が続々と生み出されたが,その中で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それらの中には絵解きや説経などの芸能と結びついたり,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く知られるようになったものも少なくない。…
…同時にそこから和光神明の慈悲利益(りやく)をはなれては仏法も成り立ち難く,釈迦も神祇の化儀なりとする神本仏迹の思想(反本地垂迹説)があらわれた。かくて天台・真言の顕密仏教から神道理論を構成する者があらわれ,天台では日吉社の山王一実神道,真言では大和の三輪神道や伊勢外宮を中心とする伊勢(度会)神道が発生した。伊勢神道は密教の胎蔵・金剛両曼荼羅を中心とする二元観をもって内宮・外宮の関係を説き,《神道五部書》をつくり,密教のみならず道教,陰陽道などさまざまの思想を混合して伊勢信仰の権威づけと神秘化をはかり神本仏迹説の奥儀を示した。…
…叡尊は大御輪寺を中興して1285年(弘安8)に三輪寺と改めたが,これ以前から三輪流神祇灌頂が行われており,三輪神道が両部神道の中で最も古いとされている。しかし1283年成立の《沙石集》によれば,〈内宮外宮ハ両部ノ大日トコソ習伝ヘテ侍ベレ〉とか,〈内宮ハ胎蔵ノ大日〉〈外宮ハ金剛界ノ大日〉と説いているから,伊勢神道と両部神道の結合が比較的早かったことを物語っている。伊勢神道は《神道五部書》をその理論的基礎とし,後の神道理論に大きな影響を与えたが,両部神道の代表的理論書である《麗気記(れいきき)》18巻もその顕著な例である。…
※「伊勢神道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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