改訂新版 世界大百科事典 「度会氏」の意味・わかりやすい解説
度会氏 (わたらいうじ)
伊勢の豊受大神宮(外宮)禰宜(ねぎ)として累代奉仕してきた氏族(皇大神宮(内宮)禰宜は荒木田氏が累代奉仕)。その起源について諸説があり,一に《伊勢国風土記》逸文にいう神武天皇のとき,伊勢を平定した天日別(あめのひわけ)命の裔で神宮鎮座以来奉仕といい,また一に天孫降臨に供奉して降った始祖天牟羅雲(あめのむらくも)命の裔大若子(おおわくご)命が,神宮鎮座のはじめ大神主兼神国造に補され,のち672年(天武1)大神主を改め禰宜職が置かれるにあたり,一族の志己夫(しこふ)が皇大神宮禰宜に,兄虫(えむし)が豊受大神宮禰宜に補され,以後継承してきたという。いずれにせよ,神宮鎮座当初すでに現在の伊勢市磯の地を中心に度会郡一円に勢力をもっていた一族とみられ,鎮座当初より奉仕したものとみられる。《延喜式》当時まで,祭主,宮司のもと禰宜は内宮,外宮それぞれ1員であったが,しだいに増員され1304年(嘉元2)以降10員となり,また権禰宜も多く置かれた。それとともに一族は発展し,古代末期以降権禰宜層は御祈禱師,御師(おんし)として神宮と庶民とを結びつける上で大きな役割を果たした。また中世には行忠,常昌(つねよし),家行ら伊勢神道大成に貢献した学者を出して思想界に大きな影響を与え,近世にも延佳以下多くを出した。近世には一族中禰宜に補せられるのは直系に限られ,それを神宮家また重代家,譜第と称し,檜垣,松木,久志本,佐久目,河崎,宮後の6氏約30家である。他の家を叙爵家また地下といい,約80家があった。1871年(明治4)神宮制度の改革とともに世襲制が廃され,その縁は絶たれた。
執筆者:鎌田 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報