鎌倉前期の仏師で,運慶の四男。生没年不詳。父運慶や兄たち(湛慶や康弁)とともに1198年(建久9)ころに東寺の仁王・二天像,1208年(承元2)に興福寺北円堂の四天王のうち北方天像,23年(貞応2)に地蔵十輪院四天王を造る。彼の作で特に注目されるのは,法隆寺金堂の銅造阿弥陀三尊(1232),東寺弘法大師像(1233),六波羅蜜寺の空也上人像(年代不明)である。銅造阿弥陀如来三尊像は飛鳥古像に似せて造ろうとした復古的な作だが,顔のつくりは鎌倉風であり,慶派の円熟した技が認められる。空也上人像は念仏を唱えながら市中を遊行する空也の動きの一瞬をとらえた珍しい肖像彫刻で,現実味のある個性的な風貌を像に与えようとする鎌倉彫刻の新風をよく示している。なお同名の作家が江戸時代末期にもいる。
執筆者:佐藤 昭夫
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生没年不詳。鎌倉前期の仏師。運慶の四男と伝えられ,運慶統率下の造仏で活躍。建久末年,教王護国寺(東寺)南大門の仁王像,同寺中門の二天像の造立に参加。法橋(ほっきょう)位にあった1212年(建暦2)頃の興福寺北円堂諸像の復興造像では多聞天(たもんてん)像を分担,18年(建保6)以前に行われた地蔵十輪院諸像の造立でも多聞天像を担当した。32年(貞永元)の法隆寺金堂阿弥陀如来像(重文),33年(天福元)の教王護国寺弘法大師像(国宝),年次不明の六波羅蜜寺空也(くうや)上人像(重文)が現存する。
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…彫刻界では運慶や快慶からその子や弟子たちの世代に入る。康勝が一瞬の動態を写生的にとらえた空也上人像(六波羅蜜寺)を,定慶が宋代彫刻の過度の写実をとり入れた聖観音像(鞍馬寺)をつくったのはこの時期である。なかんずく運慶の長子湛慶は運慶の力動感あふれる存在性と快慶の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立し,1251‐54年(建長3‐6)に蓮華王院本堂(三十三間堂)の復興造仏を成し遂げた。…
…食堂の西側に築地塀で囲まれた西院があり,その中心建物が大師堂(国宝)である。ここは空海の住房と伝え,不動明王座像(国宝,平安前期)を本尊とすることから不動堂と呼ばれ,のち弘法大師座像(重要文化財,康勝作,1233)をも安置したので大師堂あるいは御影堂とも称されるようになった。建物は後堂(1380),前堂(1390)および中門からなり,檜皮(ひわだ)葺き屋根をもつ住宅風建築。…
※「康勝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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