(浅井和春)
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平安中期の仏師。定朝の父と伝える。生没年不詳。康浄,康昭,康成,康常,広尚とも記される。998年(長徳4)に土佐講師,ついで近江講師に任ぜられているので,僧籍を持つ仏師であることがわかる。比叡山の出身か,同山に深い関係を持つと思われ,恵心僧都源信のもとで造仏を担当し,藤原氏に重用され,道長一族や行成をはじめ皇室の注文も受けて,多くの仏像を造ったことが行成の日記《権記》や道長の《御堂関白記》などの記事によってわかる。特に名高いのは1020年(寛仁4)道長の発願で造られた法成寺無量寿院の丈六九体阿弥陀像で,康尚と定朝の合作とされている。彼の仏像が当時の社会に迎えられたのは,10世紀半ばころから顕著になる彫刻の和様化の先駆として,のちに定朝が完成する様式の基礎を築き上げたことによると思われる。東福寺同聚院の不動明王座像は1006年(寛弘3)にできた旧法性寺五大堂の本尊と伝えられ,康尚の唯一の遺作と推定されるが,もしこれが正しければ,単に定朝様の基礎をうち立てただけでなく,その後の主流となる寄木造の先鞭をつけた点でも評価されるであろう。
執筆者:佐藤 昭夫
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10世紀末から11世紀初めにかけて活躍した仏師。康常、康浄などと当て字されることがあるので、読みは「こうじょう」が正しい。仏師定朝(じょうちょう)の師で、父ともいわれる。991年(正暦2)に祇陀林寺(ぎだりんじ)の丈六釈迦如来像(じょうろくしゃかにょらいぞう)の造立(ぞうりゅう)が、文献上最初の事績。以後貴族関係や比叡山(ひえいざん)、高野山(こうやさん)など、数多くの造像に携わり、1020年(寛仁4)、定朝を率いて法成寺(ほうじょうじ)無量寿院(むりょうじゅいん)の九体阿弥陀像をつくったのが、文献から知りうる最後である。東福寺同聚院(どうじゅいん)の不動明王像は藤原道長発願(ほつがん)の法性寺(ほっしょうじ)五大堂(ごだいどう)の旧中尊像で、康尚の唯一の遺品と考えられる。仏像製作の受注体制、およびそこから生ずる仏師の専業体制を確立した。図像を厳密に守る仏像を製作し、あわせて貴族層の美的嗜好にあわせた作風をつくり出した。彫刻における和様化を一段と進め、次代の定朝により大成される和様を準備した意義は大きい。後世の仏師系図では、仏師の租とされる。
[伊東史朗]
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…日本彫刻史上屈指の名匠といわれる。仏師僧康尚(こうじよう)の子と考えられ,1020年(寛仁4)康尚とともに藤原道長発願の無量寿院(のちの法成寺阿弥陀堂)の9体の丈六阿弥陀像をつくったのをはじめ,宮廷や藤原一門などの造仏に多くたずさわった。22年(治安2)法成寺造仏の功によって,仏師としてはじめて僧綱位の法橋に叙され,48年(永承3)には興福寺造仏の賞として法眼に進んでいる。…
…記録では叡山の例が多いが,他の寺院でも同様と思われる。職業仏師の祖といわれる定朝の父康尚(こうじよう)も叡山のこうした組織のなかから出てきた人物と思われるが,彼の場合は晩年に邸宅兼工房を持って生活していたらしく,資格としては土佐講師という僧としての肩書も備えている。このころから仏師の工房である仏所が定着するようになるが,その長上たる人物を大仏師といい,その下位にあって大仏師の手足となって働く者を小仏師と呼ぶようになる。…
…これらは10~11世紀の金工を代表する秀作であり,同じ延暦寺の宝相華蒔絵(ほうそうげまきえ)経箱とともに919年(延喜19)の三十帖冊子のための蒔絵箱(仁和寺)やこれと前後するころの東寺の海賦蒔絵袈裟箱,大阪藤田美術館の仏功徳蒔絵経箱など前世紀の漆芸品のあとをうける貴重な工芸遺品なのである。神道美術
[和様の完成]
源信が《往生要集》をあらわした985年(寛和1)の数年後,その本拠である横川の霊山院釈迦堂本尊を造った康尚(こうじよう)という仏師がいる。彼はやがて藤原道長や行成に用いられ,〈土佐講師〉という僧職まで与えられるようになる。…
※「康尚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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