院尊(読み)いんそん

改訂新版 世界大百科事典 「院尊」の意味・わかりやすい解説

院尊 (いんそん)
生没年:1120-98(保安1-建久9)

平安末~鎌倉初期の院派仏師。1154年(久寿1)鳥羽金剛心院の造仏により法橋になり,83年(寿永2)の僧綱補任では,円派,慶派の仏師をおさえて,最高位の法印につき,文字どおり仏師界の第一人者であったと思われる。宮廷や後白河院の信頼も厚く,鎌倉幕府成立前後には南都復興の造仏事業に携わり,86年(文治2)興福寺講堂の阿弥陀三尊像を造立し,95年(建久6)には法眼院実,法橋覚朝,院円,院範,院俊,院康など一門を引き連れて東大寺大仏光背製作に当たっている。この南都復興の造仏をめぐって,仏師各派が職場獲得で争い,実力者院尊が主要堂を独占することに対し,円派仏師明円や奈良仏師成朝が異議を申し立てたとの記録がある。しかし,若い時期には,円派と共同作業を通じて関係を持ち,法橋位を円派仏師の賢円から譲られている。院尊作と確定できる現存作はない。
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百科事典マイペディア 「院尊」の意味・わかりやすい解説

院尊【いんそん】

院派の代表的な木仏師院覚の子または弟子といわれる。平安末から宮廷や貴族の造仏に携わって法印位に登り,鎌倉初期の仏師界に君臨した。興福寺復興に際しては最も重要な造仏を担当し,東大寺大仏光背も造った。遺作は現存しない。
→関連項目康慶

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朝日日本歴史人物事典 「院尊」の解説

院尊

没年:建久9.10.29(1198.11.29)
生年:保安1(1120)
平安末・鎌倉初期に活躍した仏師。院覚の子。久安5(1149)年宇治・成楽院西御堂の半丈六大日如来像と丈六阿弥陀如来像の造立で,記録に初めてその名がみえる。久寿1(1154)年には,鳥羽・金剛心院の造仏の功で法橋となる。治承2(1178)年建礼門院の御産祈のため三尺七仏薬師を造立した際すでに法印位に上っており,院派系仏師の中心人物として当時の造仏界で勢力を誇っていたようだ。同4年の平重衡の兵火で大きな被害を蒙った東大寺や興福寺の復興造営に,円派・慶派の仏師たちと共に加わっており,東大寺大仏の光背を造るなど重要な役割を果たしたが,確定できる彼の現存作品は知られていない。<参考文献>小林剛『日本彫刻作家研究』,清水真澄「仏師院尊論」(『成城短期大学紀要』19号)

(浅井和春)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「院尊」の意味・わかりやすい解説

院尊
いんそん

[生]保安1(1120)
[没]建久9(1198).10.29.
平安時代末期~鎌倉時代初期の七条大宮仏所の仏師。院覚の子または弟子。院派の棟梁として活躍し造仏界に君臨,法印位につく。久安5 (1149) 年成楽院の『大日如来像』を造立し,供養願文を藤原定信が書いたことが知られる (『兵範記』) 。東大寺,興福寺の復興造営に関係し,治承5 (81) 年興福寺の造仏には明円,成朝と争ったが常に重要な仏像を担当した。文治6 (90) 年興福寺講堂の『阿弥陀三尊像』,建久4 (93) 年宮中の七仏薬師7躯を造立,同5年院実とともに東大寺大仏の光背を造ったが遺品はない。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「院尊」の意味・わかりやすい解説

院尊
いんそん
(1120―1198)

平安時代末から鎌倉時代初めにかけて活躍した院派の仏師。院覚の子あるいは弟子といわれ、当時の仏師のうちでも最高の地位と名声をもって彫刻界に君臨した人物である。いわゆる南都復興にあたっては、興福寺のもっとも重要な造仏を担当し、東大寺の大仏の光背を制作するなど、その活躍は顕著で、作品も数多くあったが、現存作品はない。彼が養和(ようわ)年間(1181~82)に後白河院(ごしらかわいん)の命によって、源氏調伏(ちょうぶく)のため5丈の毘沙門天(びしゃもんてん)像をつくったことが鎌倉方に忌避され、院派の勢力を衰えさせる一つの原因になったともいうが、院派の衰退は、彼以後に優れた仏師が出なかったことによると思われる。

[佐藤昭夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「院尊」の解説

院尊 いんそん

1120-1198 平安後期-鎌倉時代の仏師。
保安(ほうあん)元年生まれ。院覚の子。治承(じしょう)2年中宮徳子(建礼門院)の安産祈願の薬師仏をつくる。そのときすでに法印だった。平氏に焼き討ちされた奈良の復興に際しては興福寺講堂大仏師となった。建久5年一門をひきいて東大寺大仏の光背をつくった。建久9年10月29日死去。79歳。

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