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鎌倉時代の慶派の仏師。この名の仏師は鎌倉時代に大仏師法師定慶,肥後法眼(ほうげん)定慶,越前法橋(ほつきよう)定慶の3人がいたと考えられる。(1)大仏師法師定慶 康慶の弟子ともいい1196年(建久7)興福寺東金堂維摩居士像,1202年(建仁2)同寺梵天,帝釈天を造っており,同時代の金剛力士像も建久年間(1190-99)の彼の作とする記録もあり,興福寺や春日社を中心に製作したことがわかる。宋代彫刻の作風を加味した,やや執拗な写実傾向を示す作家で,非常にすぐれた技量を見せている。(2)肥後法眼定慶 1224年(元仁1)京都大報恩寺の六観音像6軀(もと北野天神社経王堂像)と東京芸術大学蔵の毘沙門天像,27年(安貞1)鞍馬寺の聖観音像を造り,42年(仁治3)兵庫石龕寺の金剛力士像,56年(康元1)岐阜横蔵寺の金剛力士像などの作があり,鎌倉へも下向したという記録がある。彼は造像銘文で自分の名に〈坪坂住〉とか〈南方派〉と肩書きしており,その名からいっても慶派一門ではあろうが,何かの事情で奈良地方で独立して仕事をしていたかとも思われる。(1)の定慶よりさらに宋風影響の強い作家である。(3)越前法橋定慶 13世紀末の記録にあらわれるが,作品はのこっていない。
執筆者:佐藤 昭夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉時代の慶派(けいは)(七条仏所)の仏師。この名の仏師は当時3人いたと考えられる。大仏師法師(ほっし)定慶、肥後法眼(ひごほうげん)定慶、越前法橋(えちぜんほっきょう)定慶(いずれも生没年不詳)がそれである。第一の法師定慶は康慶の弟子ともいわれ、1196年(建久7)に興福寺東金堂維摩居士(ゆいまこじ)像、1202年(建仁2)に同寺梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像をつくっており、同寺の金剛力士像も建久(けんきゅう)年間(1190~99)の彼の作とする記録がある。興福寺や春日(かすが)大社を中心に宋(そう)代彫刻の作風を加味した写実的な傾向の制作を行い、優れた技量を示した。第二の肥後法眼定慶は、1224年(貞応3)に京都大報恩寺の六観音像6躯(く)と毘沙門天(びしゃもんてん)像(東京芸術大学)、27年(嘉禄3)に鞍馬寺(くらまでら)聖観音像、42年(仁治3)に兵庫石龕寺(せきがんじ)の金剛力士像、56年(建長8)に岐阜横蔵寺の金剛力士像などの作があり、鎌倉へも下向したという記録がある。彼は造像銘文で自分の名に「坪坂住」とか「南方派」と肩書しているので、慶派一門ではあろうが、なにかの事情で奈良地方で独立していたかとも思われ、第一の定慶よりさらに宋風の影響が強い。第三の越前法橋定慶は鎌倉後期の13世紀末の記録に現れるが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩(ぼさつ)像などの修理の事実があるだけで、作品は残っていない。
[佐藤昭夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
生没年不詳。平安末~鎌倉前期の仏師。運慶・快慶とほぼ同時期に活躍。作風は徹底した写実性と中国宋代美術の受容を基調とする。代表作は,1196年(建久7)の興福寺東金堂維摩(ゆいま)居士像(国宝)。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…彫刻界では運慶や快慶からその子や弟子たちの世代に入る。康勝が一瞬の動態を写生的にとらえた空也上人像(六波羅蜜寺)を,定慶が宋代彫刻の過度の写実をとり入れた聖観音像(鞍馬寺)をつくったのはこの時期である。なかんずく運慶の長子湛慶は運慶の力動感あふれる存在性と快慶の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立し,1251‐54年(建長3‐6)に蓮華王院本堂(三十三間堂)の復興造仏を成し遂げた。…
※「定慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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