デジタル大辞泉
「式守伊之助」の意味・読み・例文・類語
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しきもり‐いのすけ【式守伊之助】
- 相撲の立行司の名。木村庄之助の次位で、庄之助とともに横綱、大関の勝負を審判する。
- [ 一 ] 初代。本名谷伊之助。伊豆の人。力士であったが、体が小さいため行司を志したという。明和四年(一七六七)江戸深川八幡社での興行番付に初出。寛政五年(一七九三)引退。寛保三~文政五年(一七四三‐一八二二)
- [ 二 ] 一九代。本名高橋金太郎。茨城県出身。木村庄三郎を経て、昭和二六年(一九五一)襲名。鬚の伊之助として親しまれた。同三四年引退。明治一九~昭和四一年(一八八六‐一九六六)
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式守伊之助
しきもりいのすけ
職業相撲(すもう)の立行司(たてぎょうじ)の名のりで、木村庄之助(しょうのすけ)の次位。1767年(明和4)、年寄初代伊勢ノ海五太夫(いせのうみごだいゆう)が行司式守家を創立し、行司に関するときは式守五太夫と称し、行司木村庄之助一派と別の一派を設けた。江戸行司は長く木村・式守の2家であったが、1911年(明治44)木村庄三郎が式守伊之助(10代)を襲名してから2家の区別はなくなり、伊之助から庄之助に昇格する道が開かれた。なお、本来は庄之助・伊之助の2人が立行司で、横綱・大関の勝負を審判することとなっているが、2015年(平成27)以降、庄之助は空位のため、筆頭は伊之助となっている(2022年時点では41代目)。
[池田雅雄]
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式守伊之助 (しきもりいのすけ)
相撲の立(たて)行司名。木村庄之助の次位。行司式守家は,初代伊勢ノ海五太夫が,1729年(享保14)相撲家元吉田追風の故実門人となり,行司家の創立を許されて,式守五太夫を名のったことに始まる。伊勢ノ海は年寄と行司家の両資格をもち,力士と行司を養成,その第1号が伊之助(1743-1822)である。伊之助は67年(明和4)3月番付に初めて名を出すが,初土俵は不明。静岡県南伊豆町小稲の生れで本名谷伊之助。74年(安永3)伊之助は木村庄之助に次ぐ第2席を占め,以後式守家から多くの名行司が誕生した。初代は93年(寛政5)引退,式守蝸牛と名のり,相撲道の極意を伝える《相撲隠雲解》の著作がある。このころより江戸行司は木村,式守の2家となったが,1886年木村誠道が式守鬼一郎に改めてから,両家の区別がなくなり,1911年木村庄三郎が10代伊之助,さらに17代庄之助を襲名。以後はこの昇進形式が多く,現在も庄之助に次ぐ立行司として存続している。
執筆者:池田 雅雄
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式守 伊之助(19代目)
シキモリ イノスケ
明治〜昭和期の大相撲行司 立行司。
- 生年
- 明治19(1886)年12月15日
- 没年
- 昭和41(1966)年12月14日
- 出生地
- 茨城県那珂郡(現・勝田市)
- 本名
- 高橋 金太郎
- 別名
- 前名=木村 金吾,木村 玉治郎,木村 庄三郎
- 経歴
- 7歳の時奉公に出たが、明治33年上京して峰崎部屋に行司として入門。同年木村金吾の名で初土俵、大正2年十両、名は玉治郎。4年幕内格、14年三役格となり、昭和26年19代目伊之助を襲名し立行司。初めは小柄で派手な声をかけ“カナリヤ行司”といわれたが、後“ヒゲの伊之助”として人気を集めた。33年秋場所の栃錦、北の洋の一番で、伊之助は北の洋に軍配を上げたが、物いいがつき、土俵を叩いて異を唱えた硬骨漢。34年定年で引退した。
式守 伊之助(16代目)
シキモリ イノスケ
明治〜昭和期の大相撲行司 立行司。
- 生年
- 明治25(1892)年6月20日
- 没年
- 昭和23(1948)年12月3日
- 出生地
- 山形市七日町
- 本名
- 刀根 亀吉
- 別名
- 前名=式守 亀吉,式守 錦之助,式守 錦太夫,式守 与太夫,年寄名=立田川 好永
- 経歴
- 井筒部屋に入門。明治32年初土俵、大正11年幕内入り、昭和2年三役格、7年伊之助を襲名。13年引退後は、大日本相撲協会理事のかたわら相撲茶屋を経営した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
式守伊之助(初代)
没年:文政5.11.28(1823.1.9)
生年:元文5(1740)
江戸中期の行司。伊豆国(静岡県)出身。本名は小倉某。初代伊勢ノ海の門弟で初め力士だったが,体が小さく出世できなかったため行司に転向,明和4(1767)年伊之助として番付に載り,木村庄之助の次席行司を務めた。寛政5(1793)年引退して式守蝸牛と名乗り,寛政の上覧相撲を記録した「相撲隠雲解」をまとめている。文化10(1813)年2代が襲名し,1993年まで27代を数える。伊之助は本来木村庄之助に次ぐ立行司とされて木村,式守両家には作法の違いがあるが,10代伊之助が14代庄之助に昇格したのをはじめ,歴代伊之助で庄之助を襲名した者も多い。<参考文献>大村孝吉『式守伊之助代々』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
式守伊之助【しきもりいのすけ】
相撲の立(たて)行司。木村庄之助の次位。式守家は力士の初代伊勢ノ海五太夫が1729年に行司家を創立し,式守五太夫を名乗ったことに始まる。伊之助の初代〔1743-1822〕は本名谷伊之助。1774年に庄之助に次ぐ位置を占め,1793年引退,式守蝸牛を名乗る。木村,式守両家の区別は次第になくなり,伊之助から庄之助を襲名する場合が多い。現伊之助は第36代で2006年襲名。→行司
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式守伊之助(初代) しきもり-いのすけ
1743-1823* 江戸時代中期-後期の相撲行司。
寛保(かんぽう)3年生まれ。力士をこころざし伊勢海五太夫に入門。体躯にめぐまれず,行司となる。明和4年式守伊之助の名ではじめて番付にのり,安永3年(1774)木村庄之助の次席行司となる。寛政5年引退し,相撲膏(こう)を販売した。文政5年11月28日死去。80歳。伊豆(いず)加茂郡(静岡県)出身。本名は谷英勝。号は蝸牛(かぎゅう)。著作に「相撲隠雲解」。
式守伊之助(9代) しきもり-いのすけ
1854-1910 明治時代の相撲行司。
嘉永(かえい)7年6月生まれ。力士をこころざして伊勢海部屋に入門。体にめぐまれず,行司6代式守伊之助の弟子となる。明治2年式守竹次郎で初土俵。錦太夫,与太夫を名のり,31年伊之助を襲名。12年間立行司をつとめた。明治43年6月28日死去。57歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。本名は水戸部(のち刀根)福蔵。
式守伊之助(19代) しきもり-いのすけ
1886-1966 明治-昭和時代の相撲行司。
明治19年12月15日生まれ。33年峰崎部屋に行司として入門。木村金吾,玉次郎,庄三郎を名のり,大正7年幕内格,14年三役格,昭和26年伊之助を襲名。「栃若時代」の土俵をつとめ,「ヒゲの伊之助」としたしまれた。昭和41年12月14日死去。79歳。茨城県出身。本名は高橋金太郎。
式守伊之助(16代) しきもり-いのすけ
1892-1948 明治-昭和時代の相撲行司。
明治25年6月20日生まれ。9代式守伊之助の弟子になり,井筒部屋に入門。式守錦太夫,与太夫などを名のり,大正11年幕内格,昭和2年三役格,7年伊之助を襲名。13年引退し,年寄立田川を襲名,相撲協会理事をつとめた。昭和23年12月3日死去。57歳。山形県出身。本名は刀根亀吉。
式守伊之助(14代) しきもり-いのすけ
1870-1925 明治-大正時代の相撲行司。
明治3年生まれ。17年式守与之吉を名のり初土俵。32年式守勘太夫とあらため,35年幕内格,39年三役格にすすむ。大正14年までつとめ,同年12月26日死去。56歳。15年伊之助を襲名。東京出身。本名は平木兼次郎。
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式守伊之助
しきもりいのすけ
年寄伊勢ノ海 (1代) 家から出た相撲行司の名家。木村庄之助に次ぐ立行司 (たてぎょうじ) で,土俵上で草履,短刀が許され,大関格の紫分 (むらさきわけ) 紐の軍配団扇 (うちわ) を持つ。
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式守 伊之助(19代目) (しきもり いのすけ)
生年月日:1886年12月15日
明治時代-昭和時代の相撲行司
1966年没
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