日本大百科全書(ニッポニカ) 「弘仁・貞観文化」の意味・わかりやすい解説
弘仁・貞観文化
こうにんじょうがんぶんか
平安前期の文化で、その中心をなす嵯峨(さが)、清和(せいわ)両朝の年号による呼称。当時は、すでに100年余にわたる大陸文化の摂取を経てかなりの程度までそれを消化していた時代で、文章経国を理想とする雰囲気のなかで漢詩文をつくることが盛行していたが、一方では国風(こくふう)文化の端緒もみえ始めていた。大学において詩文を学ぶ文章道(もんじょうどう)が隆盛し、嵯峨、淳和(じゅんな)、仁明(にんみょう)天皇は自ら詩作し、廷臣のなかにも藤原冬嗣(ふゆつぐ)、小野岑守(みねもり)、菅原清公(すがわらのきよきみ)、小野篁(たかむら)、春澄善縄(はるずみのよしただ)、都良香(みやこのよしか)などの文人が輩出した。嵯峨朝では『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』(818ころ)が編まれ、淳仁朝では『経国集(けいこくしゅう)』(827)がつくられている。これらに収められた詩文は8世紀の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』に比べ、柔らかみが出てきている。国風文化の現れとしては、仮名(かな)の使用が始まっている。漢詩文では十分に表現しえない国風の思想、情緒の発達が、仮名の使用を促したのであって、「斯道已(しどうすで)に墜(お)つ」とまで称された和歌も清和朝のころから復興し、六歌仙らの活動も始まっている。仏教方面では密教が貴族の嗜好(しこう)にかない、神秘的ないし呪術(じゅじゅつ)的な密教芸術が栄えた。加持祈祷(かじきとう)を目的とするため、如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王(ふどうみょうおう)の像がつくられたり描かれたりした。彫刻では一木造(いちぼくづくり)が多く、豊満で官能的なものが目だち、翻波(ほんぱ)式彫法が行われ、絵画では仏像のほかに仏の世界を描いた曼荼羅(まんだら)が発達した。観心寺如意輪観音像や園城寺黄不動(おんじょうじきふどう)ないし神護寺両界曼荼羅は密教芸術の代表的作品である。また神仏習合の傾向も進み、神像もつくられている。
[森田 悌]