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後伏見天皇 ごふしみてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後伏見天皇
ごふしみてんのう

[生]正応1(1288).3.3. 京都
[没]延元1=建武3(1336).4.6. 京都
第 93代の天皇 (在位 1298~1301) 。名は胤仁。伏見天皇の第1皇子。生母は准三宮藤原経子 (参議藤原経氏の娘) 。養母は永福門院藤原しょう子 (西園寺実兼の娘) 。永仁6 (1298) 年践祚,次いで即位。

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デジタル大辞泉の解説

ごふしみ‐てんのう〔‐テンワウ〕【後伏見天皇】

[1288~1336]第93代天皇。在位、1298~1301。伏見天皇の第1皇子。名は胤仁(たねひと)。足利尊氏(あしかがたかうじ)六波羅攻略のとき、花園上皇光厳天皇らと東国へ逃れようとしたが捕らえられ、帰京後出家した。歌集「後伏見院御集」、日記「後伏見院宸記」がある。

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百科事典マイペディアの解説

後伏見天皇【ごふしみてんのう】

在位1298年−1301年。伏見天皇の皇子。花園天皇在位中の1313年に伏見上皇から政務を譲られ,1318年まで院政を行った。持明院(じみょういん)統大覚寺(だいかくじ)統の皇位争いの中,皇子量仁(かずひと)親王(光厳(こうごん)天皇)の践祚(せんそ)に意を注いだ。
→関連項目帝王編年記

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後伏見天皇 ごふしみてんのう

1288-1336 鎌倉時代,第93代天皇。在位1298-1301。
弘安(こうあん)11年3月3日生まれ。伏見天皇の第1皇子。母は藤原経子(けいし)。父の譲位をうけて即位。持明院統。2年半で大覚寺統の後二条天皇に位をゆずる。異母弟の花園天皇と子の北朝第1代光厳(こうごん)天皇のとき院政をおこなう。鎌倉幕府がたおれたのちの,建武(けんむ)3=延元元年4月6日死去。49歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は胤仁(たねひと)。法名は理覚,行覚。別名に持明院殿。歌集に「後伏見院御集」,日記に「後伏見院宸記(しんき)」。
【格言など】夕山やふもとの檜原色さめて残る日影ぞみねにすくなき(「風雅和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

後伏見天皇

没年:建武3/延元1.4.6(1336.5.17)
生年:正応1.3.3(1288.4.5)
鎌倉時代後期・南北朝時代持明院統の天皇。諱は胤仁。父は伏見天皇。母は参議藤原経氏の娘経子。正応1(1288)年8月親王宣下。翌年4月鎌倉幕府の斡旋により立坊(東宮となること)。永仁6(1298)年7月,父伏見天皇のあとを受けて践祚,同時に伏見上皇による院政が始まるが,大覚寺統は幕府を動かし正安3(1301)年1月同天皇を退位させ後二条天皇を立てた。後伏見天皇の在位はわずか2年半にすぎず,持明院統に不満を残した。延慶1(1308)年8月後二条天皇が早世すると,皇太子富仁親王(後伏見の弟)が践祚して花園天皇となり,伏見上皇の院政が再開。正和2(1313)年10月伏見上皇の出家に伴い後伏見上皇の院政が始まるが,文保2(1318)年2月花園天皇が退位に追い込まれて,大覚寺統の後醍醐天皇が践祚したため同上皇の院政も終わる。後醍醐天皇による討幕の挙兵が失敗し,元徳3/元弘1(1331)年9月幕府に支えられて光厳天皇(後伏見の皇子)が立つと,後伏見上皇は再度院政を始めたが,正慶2/元弘3年5月幕府滅亡とともに廃止された。後醍醐天皇が主宰する建武政府下では逼塞を余儀なくされたが,後伏見をあおぐ西園寺公宗ら持明院統ゆかりの公家たちがクーデタを企てるひとこまもあった。建武政府は足利尊氏の離脱によってまもなく崩壊,尊氏は建武3/延元1(1336)年8月後醍醐に対抗するために光明 天皇を擁立し北朝を立てるが,後伏見上皇はその4カ月前に没していた。

(森茂暁)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ごふしみてんのう【後伏見天皇】

1288‐1336(正応1‐延元1∥建武3)
第93代に数えられる天皇。在位1298‐1301年。伏見天皇第1皇子。名は胤仁。母は五辻経氏の娘。永福門院藤原子は養母。在位中は父上皇の院政の下にあった。持明院・大覚寺両統による皇位争いの中で,皇子量仁親王(光厳天皇)が後醍醐天皇の皇太子になると,その践祚に意をそそいだ。元弘の乱後,出家してまもなく没した。父天皇とともに能書家として知られ,歌集《後伏見院御集》,日記《後伏見院宸記》がある。陵所は京都市伏見区深草坊町にある(深草北陵)。

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大辞林 第三版の解説

ごふしみてんのう【後伏見天皇】

1288~1336) 第九三代天皇(在位1298~1301)。名は胤仁たねひと。伏見天皇の皇子。1333年六波羅探題滅亡の際、探題北条仲時に擁されて花園上皇・光厳こうごん天皇とともに東国に向かったが近江国番場で捕らえられて帰洛し、のち出家。歌集「後伏見院御集」、日記「後伏見院宸記しんき」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後伏見天皇
ごふしみてんのう
(1288―1336)

第93代天皇(在位1298~1301)名は胤仁(たねひと)。法名理覚、のちに行覚。常盤井(ときわい)殿と称された。伏見天皇の第1皇子。実母は五辻経氏(いつつじつねうじ)の女(むすめ)経子。養母は西園寺実兼(さいおんじさねかね)の女(むすめ)永福門院(しょうし)。父帝の譲を受けて位についたが、その在位中に持明院(じみょういん)、大覚寺(だいかくじ)両統の間に迭立(てつりつ)による皇位継承の協定が成立し、わずか3年で退位した。のち花園(はなぞの)天皇および光厳(こうごん)天皇の代になり、院政をとった。元弘(げんこう)の変に際会し、東国に向かう途中敗れて帰京し、出家した。後伏見天皇は父伏見天皇また兄弟の花園天皇や尊円(そんえん)親王に似て名筆家として著名。延元(えんげん)元年4月6日没。京都の深草北陵に葬る。同天皇には日記が二十数巻あった由であるが、今日伝存するものはその一部と考えられる断簡にすぎない。『後伏見院御集』と称する107首を収める歌集が伝存する。[村田正志]

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