後町(読み)ちくごまち

日本歴史地名大系 「後町」の解説

後町
ちくごまち

[現在地名]酒田市相生町あいおいちよう一丁目・浜田はまだ一丁目・幸町さいわいちよう一丁目

南は近江おうみ町、北から東は新片しんかた町。南北に連なる両側町で、米屋町組に属する。最上氏時代町域には川北三奉行の一人斎藤筑後守と同人与力の宅地のほか、少数の民家があったが、風砂強く埋没の危険があるため民家の多くは退転した。寛文七年(一六六七)西方に砂除けの土手を築き、人家を移転させて跡地に加藤忠広領・大山藩領、庄内藩のうち中川なかがわ通・櫛引くしびき通・京田きようでん通の米蔵を建て下蔵と称した。同一二年下蔵を新井田にいだ川岸に移したため蔵跡は畑地となったが、前年退去した民家が旧屋敷に家作を申請したため天和三年(一六八三)屋敷割をし、西側に延長一〇〇間の砂防土手を築き鶴田口浜つるたぐちはま町と称した(「明暦絵図書入」大泉叢誌)


後町
うしろまち

[現在地名]横手中央ちゆうおう

南の田中たなか町と二ノ堰(小刀堰)で境をなし、四日よつか町の西裏にあたる。慶長一七年(一六一二)一二月二〇日、院内いんない銀山の鉛盗人に関して石見の「作右衛門ハ横手のうしろ町ニ居候由」(梅津政景日記)とみえ、寛文九年(一六六九)の横手絵図(横手郷土史資料)ではてら町とある。元禄一七年(一七〇四)横手城下絵図(県立秋田図書館蔵)うしろ町とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には後町で家数二軒、寺八軒、町並一九六間とある。文政期(一八一八―三〇)の「雪の出羽路」は、西誓さいせい寺・円浄えんじよう(ともに真宗大谷派)大乗だいじよう(湯殿山大日坊ノ門末行人派)光専こうせん(浄土真宗本願寺派)正法しようほう(日蓮宗)などが寺町にあったと記す。


後町
ちくごまち

[現在地名]長崎市筑後町・玉園町たまぞのまち

うわ町の北、岩原いわはら川右岸にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。筑後国からの移住者による町立てに由来する町名と考えられるが、観善かんぜん寺の開基浄念の出身地に関連するともいう。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「筑後町」の「理庵」「みしや」が署名している。寛永長崎港図に「筑後町通り」とある。寛永一六年(一六三九)ジャカルタに追放されたジャガタラお春とその母・姉らが居住、聖福しようふく寺の境内にジャガタラお春の碑が建立される。同年筑後町阿蘭陀イキリス種子ノ人数書上(長崎拾芥)ではオランダ人二、イギリス人四が記される。


後町
うしろまち

[現在地名]勝山市ほん町一―三丁目

袋田ふくろだ町・こおり町の西側に並行して位置し、九頭竜くずりゆう川右岸の河原に西面する。慶長六年(一六〇一)の西町藤田組帳(笹屋文書)に町名がみえ、石高六二六・九六石。小町名には寺町てらまち正覚寺門前しようがくじもんぜんがあった(越前国名蹟考)。幕末の勝山町図(「勝山市史」所収)によると、通りに面しては職人の住居が多く、町の北端、長渕町ながぶちまちへ通じる角には牢獄が置かれていた。また正覚寺門前や寺の横町には遊女体の者が多く居住し、風儀が乱れ、とくに天保改革期には藩の取締を受けた。寺の境内や隣接の九頭竜川の河原では、芝居・狂言・曲馬などの見世物興行が行われ、近代以降河原町歓楽街の基をつくった(稿本勝山史料)


後町
うしろまち

[現在地名]能代市大手おおて町・おお町・川反かわばた

東に役屋敷、西に清助せいすけ町がある。

寛保元年(一七四一)の「代邑聞見録」に「後町 建年不知。疑うらくは弘治年中ならん」とある。享保七年(一七二二)能代町絵図(能代市役所蔵)に後町とみえ、同一三年の能代町絵図(同所蔵)では後町の東端は侍屋敷となっており、久保田給人が南側に三人、北側に五人住んでいる。その他は両側とも町屋。文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、道幅は四間に満たず、東端から四八間余西に行くと南へ向かう新町の入口になり、北の大町・下川反町へ抜ける中山なかやま小路入口になる。


後町
うしろまち

[現在地名]本荘市後町

北に日役ひくじ町、南におお町があり、東は桶屋おけや町・中横なかよこ町と隣接する町人町で、西には猟師りようし町がある。近世には上後かみうしろ町・中後なかうしろ町に分れていた。万用記に文久元年(一八六一)六月五日朝のこととして「中後町九右衛門上後町喜助両家門ヘ落札是有其文意ハ無尽掛一二年御休可被下候」とあり、おそらく下後しもうしろ町もあったと思われるが確認できない。


後町
ごちよう

[現在地名]長野市長野 東後町ひがしごちよう

大門だいもん町の南に続く町。「明月記」の安貞元年(一二二七)九月の条に、「善光寺近辺号後庁、為目代等之居所」とあるように、鎌倉時代には信濃国衙が置かれ、後庁と呼称された。嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の大宮御造栄之目録に、同社造営所役として、玉垣五間を「五町」「栗田」「今溝」の三郷にあてている。善光寺ぜんこうじ町が伝馬継立てに決った慶長一六年(一六一一)以後、東西に分れ、東後町は善光寺宿の歩行役を務め、西後町は妻科つましな村に属した。


後町
うしろまち

[現在地名]福江市中央町ちゆうおうまち

福江城の北西にある。本町ほんまち通に対する裏町の意という。寛永一一年(一六三四)福江直りに伴って町割が行われた武家屋敷町の一つで、同年の屋敷数九(五島編年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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