御館(読み)みたち

精選版 日本国語大辞典 「御館」の意味・読み・例文・類語

み‐たち【御館】

〘名〙 (「み」は接頭語)
国府の庁。また、領主役所
※土左(935頃)承平五年一月九日「藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさらなん、みたちより出でたうびし日より、ここかしこに追ひ来る」
② 貴人の住居。おやしき。
※虎明本狂言・餠酒(室町末‐近世初)「我らのまいる御(ミ)たちはこれで御ざるが」
③ (①の住人の意から) 領主。殿様
今昔(1120頃か)二四「此は御館の名立にも有(あらむ)と云て」

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デジタル大辞泉 「御館」の意味・読み・例文・類語

み‐たち【館】

国府の庁。また、領主の役所。
「―に参りて申さんとて、走りて行きぬ」〈今昔・二五・一一〉
領主。主君
「―も上様かみさまも、死出の山と申す道越えさせ給ひて」〈義経記・八〉

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日本の城がわかる事典 「御館」の解説

おたて【御館】

新潟県上越市にあった城館。かつて越後の中心地として府中あるいは府内と呼ばれていた一角、今日のJR直江津駅の西南方、関川の自然堤防上にあった中世の城館である。東西約250m・南北約300mの規模を持ち、主郭を含め5つの郭で構成されていたもので、越後では最も規模の大きな城館とされる。上野国の平井城(群馬県藤岡市)を居城としていた関東管領の上杉憲政は1551年(天文20)3月、小田原北条氏(北条氏康)が上野に侵攻したことから、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れた。謙信は憲政を迎え、その居館(関東管領館)として、弘治年間(1555~58年)に居城の春日山城(上越市)の城下に建設したといわれている。謙信はこの館を外交館としても使用した。その後、御館は謙信の死後の1578年(天正6)、上杉景勝上杉景虎の2人の養子が争った御館の乱の主戦場の一つとなった。御館の乱では景勝が春日山城を拠点としたのに対し、景虎は春日山城を脱出して御館を拠点とした。翌1579年(天正7)2月18日、景勝は御館を包囲して食糧を遮断し、3月17日に一斉攻撃を行い、御館は炎上・落城した。このとき、上杉憲政は春日山城に和議交渉に向かう途中で景勝の兵により殺害された。上杉景勝が豊臣秀吉により会津へ移封された後、この地に入った堀秀治は御館跡を利用したともいわれるが、1599年(慶長4)時点ですでに耕地になっていたといわれる。1964年(昭和39)に行われた跡地の発掘調査で、建物や庭園、井戸跡が見つかり、櫛や簪のほか鉛製の銃弾なども発見された。現在、御館跡の一部が御館公園となっている。園内には御館があったことを記した石碑が建っている。JR信越本線・北陸本線直江津駅から徒歩約10分。

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日本歴史地名大系 「御館」の解説

御館
おたて

[現在地名]防府市松崎町

旧山陽道に沿った宮市みやいち町の前小路まえこうじ北裏の字地名で、豊臣秀吉の御館があった地と伝える。「注進案」は御館村という小名を記し、「宮市前小路北裏を言、太閤秀吉公の御館有之候所と申伝へ候」とする。

天正一五年(一五八七)西下に際し、三月一一日に防府に一泊した秀吉は、二六日付で小早川隆景に書状を送り、毛利輝元の馳走をも褒している(小早川家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の御館の言及

【被官百姓】より

…信濃国(長野県)伊那郡を中心に,江戸時代に存在した農繁期の農業労働や家事労働を提供する小作人をいう。この小作人を持つ地主を〈おやかた〉とか〈おえい〉と呼び,〈御館〉〈御家〉の字をあてている。史料的に跡づけられる例として伊那郡虎岩村の平沢家をみると,同家は古くは土地の土豪下条氏の家臣で,武田,織田,徳川の諸氏が信濃南部を席巻したころには次々とそれらに臣従し,知行地を認められている。…

※「御館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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