徳丹城跡(読み)とくたんじようあと

日本歴史地名大系 「徳丹城跡」の解説

徳丹城跡
とくたんじようあと

[現在地名]矢巾町西徳田

北上川の西岸、小高い丘陵上に位置。征夷将軍陸奥出羽按察使の文室綿麻呂の弘仁二年(八一一)建議により、志波しわ(現盛岡市)を移して築かれた城柵・官衙跡。「日本後紀」弘仁二年閏一二月一一日条によれば、綿麻呂の奏言に志波城は河浜に近く、しばしば水害を被るので便地に移転すべしとある。同書同五年一一月一七日条に胆沢いさわ(現水沢市)と並んで徳丹城の名がみえ、志波城の後身として当城が置かれたことが知られる。したがって築城年代は上記の期間中となるが、弘仁四年の頃とするのが一般的である(岩手県史)。同六年に陸奥国の軍制の改革が行われ、鎮兵が廃止されて軍団兵と健士を城柵に配することになったが、この時に廃止された鎮兵一千人のうち五〇〇人が当城の所属であった(同年八月二三日「太政官符」類聚三代格)。以後史料上から姿を消し、同六年に廃されたとする説もあるが、「岩手県史」などは志賀理和気しがりわけ神社(現紫波町)の進階があった仁寿二年(八五二)頃までは存続し、当地方開拓の策源地であったと推定している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「徳丹城跡」の解説

とくたんじょうあと【徳丹城跡】


岩手県紫波(しわ)郡矢巾(やはば)町徳田にある城柵跡。北上川右岸に形成された島状の段丘上にある。811年(弘仁2)、雫石(しずくいし)川の氾濫のため移転を余儀なくされた志波(しわ)城の代替として、征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の建言によって造られ、814年(弘仁5)ごろに完成した東北進出の前進基地である。ほぼ同時期に造られた胆沢(いさわ)城や志波城は、河川を城内に引き込んでいるが、徳丹城は河川を引き込まずに約400mの運河によって北上川とつながれていた。1947年(昭和22)からの発掘調査の結果、判明した城域は東西350m、南北353mのほぼ正方形で、外郭線は北辺全面と東辺・南辺の一部(地形的に高い段丘上)が築地であり、西辺全面と東辺・南辺の一部(低い湿地帯)は丸太材列という特異な構造を採っている。外郭線の各辺にはそれぞれ八脚門と櫓(やぐら)が配され、内外をめぐる溝があった。内郭区画は、2004年(平成16)の調査で、南辺、西辺は長さ約76mの板塀によるもので、内郭はほぼ正方形と判明。内側には正殿と東・西脇殿の3棟が確認されている。1969年(昭和44)に国の史跡に指定された。2006年(平成18)には城跡の井戸跡から国内初の木製兜が発見された。木製兜の存在過去文献に記されていたが、木材は腐食しやすいためそれまで出土例はなかった。向かい側に矢巾町歴史民俗資料館、南部曲がり家を併設し、史跡公園として現在整備が進められている。JR東北本線矢幅駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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