江戸後期の真言宗の僧。諱(いみな)は飲光(おんこう),百不知童子,葛城山人などと号し,世人から慈雲尊者と敬われる。俗姓上月氏。大坂に生まれ,12歳で河内国法楽寺貞紀について出家。15歳で密教,悉曇(しつたん)を学び,18歳で京都に上って経史詩文を習い,ついで奈良で顕密の学を修めた。このとき戒律に関心を寄せた。のち信濃に遊び,禅をも学ぶ。1744年(延享1)河内国長栄寺に住してはじめて戒律を講じ,鑑真以来一定していなかった授戒の作法に規律を定めて正法律(しようぼうりつ)と称した。のち摂津国有馬桂林寺に転じたが,この間もさかんに正法律を提唱し,講演著述に専念した。生駒山双竜庵に隠棲してからも梵学を研鑽,《般若心経》《阿弥陀経》などの梵文を読み,その義解を講説した。梵学の研究成果はのち《梵学津梁(ぼんがくしんりよう)》約1000巻となったが,独力でこれをなしたことは驚異である。54歳で京都阿弥陀寺に住して十善の法を説き,《十善法語》12巻に筆録された。97年(寛政9)河内国高貴寺に移り,戒壇を築いて正法律一派の本山とした。87歳で京都阿弥陀寺に没した。授戒説法の余暇は著述につとめ,著書は上記のほか《方服図儀広本》10巻,《方服図儀略本》2巻,《七九鈔》5巻,《南海寄帰内法伝解纜鈔》8巻などがある。また神道に関する所説があり,彼が唱えた神道は〈雲伝神道〉といわれている。慈雲所伝の神道という意味で,居所にちなんで〈葛城神道〉とも呼ばれる。同時代の本居宣長の復古神道に対して,密教を背景とした仏家神道の特色がある。書をよくし,梵字の筆路を加味した蒼古勁健の筆致は近世書道史上の異色である。肖像画によれば,広い額に豊かな下あご,眉と鬚(ひげ)はあくまで白く,威容厳然たるなかにも温和な人柄が感じられる。1922年から26年にかけて《慈雲尊者全集》18巻が刊行された。
執筆者:伊藤 唯真
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(正木晃)
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…すなわち,身体において殺生(せつしよう)(殺すこと),偸盗(ちゆうとう)(盗むこと),邪淫(じやいん)(男女の交わりのよこしまなこと),言葉においては妄語(もうご)(うそをつくこと),両舌(りようぜつ)(仲たがいさせることばをいうこと),悪口(あつく)(わるくちをいうこと),綺語(きご)(でたらめをいうこと),意においては貪欲(とんよく)(むさぼること),瞋恚(しんい)(怒ること),邪見(じやけん)(誤った考え方をすること)の,それぞれをなさないことである。この十善をきびしく守ることを十善戒といい,江戸時代後期の慈雲が広く説いた。国王,天皇,またはその位を十善というのは,前世で十善を行った功徳によってその位についたと考えられたからである。…
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