振徳堂跡(読み)しんとくどうあと

日本歴史地名大系 「振徳堂跡」の解説

振徳堂跡
しんとくどうあと

[現在地名]日南市飫肥四丁目

十文字じゆうもんじ馬場と常真じようしん馬場の交差点北西角にあった飫肥藩の藩校。敷地は一千四六八坪、家屋は二七三坪の規模で(「稿本宮崎県史」県立図書館蔵)、学問所のほかに武芸所・寮などの施設を備えていた。現在も学問所・長屋門などが残るが、これは飫肥城復元事業の一環として昭和五一年(一九七六)に修復されたもの。

〔藩校開設以前〕

藩校が設けられる以前の飫肥藩領(飫肥地方・清武地方)では、一般に文教に対する意識が低かった。勉学に励む者に対しては、この国の風俗に従わない者で、異風人であり愚人である、とみる風土があった(日向纂記)。寛政四年(一七九二)飫肥を訪れた高山彦九郎は、それまで仮に設けられていた学問所(所在地などは不詳)が、その焼失後に再建されなかったことを知り、飫肥藩士たちに論語の厩焚の章を講義して学校の設置を説いている(筑紫日記・日向纂記)。学問の普及に心をくだいていた松井蛙助は彦九郎に触発され、家老らに学問所再建を嘆願(日向纂記)、その後、壱岐桐園(古賀精里・頼杏坪門下)・川崎良忠(皆川淇園門下)高山信濃(中井積善門下、田ノ上八幡宮司)らも嘆願を続けた。享和元年(一八〇一)ようやく振徳堂の前身となった学問所が当地に開設され、教授には壱岐桐園・川崎良忠・高山信濃・阿万玄洞が任じられた。ほかに主事一五名を置き、翌年には主事のうえに句読師五名を置いている(同書)。なおこれより以前、桐園の献策によって藩は年ごとに書籍を購入し、数百巻を揃えていた。また清武きよたけ(現清武町)においても江戸の古谷鬲と京都の皆川淇園に学んだ安井滄洲が郷中の学風改善に努め、文政一〇年(一八二七)藩の許しを得て加納かのう(現同上)中野なかのに学問所明教めいきよう堂を開設、江戸昌平坂しようへいざか学問所に学んでいた子の安井息軒を帰国させ助教としている(以上「日向私史」)


振徳堂跡
しんとくどうあと

[現在地名]篠山市西新町

篠山藩の藩校。篠山城の外堀の南西、南馬出しの西手に置かれた。明和三年(一七六六)藩主青山忠高は藩校の振徳堂を創立、加判役の石橋三太左衛門と世話役二名を置いて担当させ、大坂の儒者関世美を主導として漢学などを教授させた。のち文武方が整備され、督学・学士・教導方・世話役・学校付を設けている。青山忠裕のときの天明年間(一七八一―八九)に京都の福井厳助を招いて養正斎・成始斎の学舎などを増築し、藩士の子弟は必ず一度は入校すべきと定め、武術・算術も導入されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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