日本歴史地名大系 「振徳堂跡」の解説
振徳堂跡
しんとくどうあと
〔藩校開設以前〕
藩校が設けられる以前の飫肥藩領(飫肥地方・清武地方)では、一般に文教に対する意識が低かった。勉学に励む者に対しては、この国の風俗に従わない者で、異風人であり愚人である、とみる風土があった(日向纂記)。寛政四年(一七九二)飫肥を訪れた高山彦九郎は、それまで仮に設けられていた学問所(所在地などは不詳)が、その焼失後に再建されなかったことを知り、飫肥藩士たちに論語の厩焚の章を講義して学校の設置を説いている(筑紫日記・日向纂記)。学問の普及に心をくだいていた松井蛙助は彦九郎に触発され、家老らに学問所再建を嘆願(日向纂記)、その後、壱岐桐園(古賀精里・頼杏坪門下)・川崎良忠(皆川淇園門下)・高山信濃(中井積善門下、田ノ上八幡宮司)らも嘆願を続けた。享和元年(一八〇一)ようやく振徳堂の前身となった学問所が当地に開設され、教授には壱岐桐園・川崎良忠・高山信濃・阿万玄洞が任じられた。ほかに主事一五名を置き、翌年には主事のうえに句読師五名を置いている(同書)。なおこれより以前、桐園の献策によって藩は年ごとに書籍を購入し、数百巻を揃えていた。また
振徳堂跡
しんとくどうあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報