西新町(読み)にししんまち

日本歴史地名大系 「西新町」の解説

西新町
にししんまち

[現在地名]徳島市西新町一―四丁目・西大工町にしだいくまち四―五丁目・新町橋しんまちばし一―二丁目

新町橋の通り筋より西へ延びる通りに沿う四町続きの町人地。伊予街道の往還筋でもあった。諸物資流通の拠点であった西にしの浜の船場せんば(新町西船場片町)を控えて、古くから卸売の大店が軒を並べ賑いをみせた。町名も町づくりの基となった大店の屋号にちなんで一丁目は杉屋すぎや町、二丁目は三倉屋みくらや町、三丁目は葛籠屋つづらや町、四丁目は海老屋えびや(蝦屋)町と称された(「阿波志」、明治初年「徳島藩御城下絵図」県立博物館蔵)


西新町
にしじんまち

[現在地名]大分市中央町ちゆうおうまち四丁目・都町みやこまち四丁目・末広町すえひろまち一―二丁目など

府内城西方、笠和かさわ口から外堀を渡った西側にある町。笠和口を出て当町を南下した府内・日田往還が永興りようご村に向かう。慶長府内絵図に町名がみえ、往還西側の片側町は南北二五七間・東西一五間、往還が城下南西端から南西に向かう辺りは両側町で、東側の町並は南北二〇間。正保府内城絵図では新町と記され周辺は田畑が広がる。城下の門外にありながら町方として扱われ、勢家せいけ庄屋の支配を受けた。宝永七年(一七一〇)の家数七七・人数三九二(豊府指南)


西新町
にししんまち

[現在地名]明石市西新町一―三丁目

城下の西の入口姫路口御門を出て明石川を渡り、同川西岸を明石城に並行するかたちで北上する山陽道沿いの町。町域は親村であった王子おうじ村の中にあり、南は船上ふなげ村。山陽道は明石城の郭外で明石川を挟んで城の西面に並行するよう付替えられており、当地は戦略上の拠点として位置づけられていた。元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町のうちに町名はみえないが、城下町の発展とともに成立した町で、天和二年(一六八二)東新町新浜しんはまとともに惣町分を申付けられ、惣町の一つとして編入された(町割年号記)


西新町
にしじんちよう

[現在地名]津市西丸之内にしまるのうち南丸之内みなみまるのうち丸之内養正まるのうちようせい

中新なかじん町のさらに西に並行する町筋をいい、二〇〇石より六〇〇石ほどの中士が居住する武家屋敷町。三代藩主藤堂高久の発意で、延宝五年(一六七七)中新町の西裏に町並が造成された。普請奉行吉武日記(津市史)に「延宝五年八月十日、新町の西に侍町片輪出来申、地割南北の角ニ屋敷」とある。「秘覚集」や「茅栗草子」は、成立の時期を寛文二年(一六六二)とするが、この年は津城下大火の年であり誤りであろう。もと中新町にあった八町はつちよう口も西新町へ移され、初め八町口より北を北新きたじん町、南を南新みなみじん町とも称した。


西新町
にししんまち

[現在地名]東区東桜ひがしさくら一丁目、中区さかえ四丁目

東新ひがししん町の西、将監しようげん屋敷・七曲ななまがりの東にあたる南北の通りで、北は駿河するが町から南は池田いけだ(現中区)に至る。万治三年(一六六〇)の大火ののち、大津おおつ町の南部蒲焼かばやき町辺りにあった武家屋敷をこの地に移したのが起源で、東西二つの新町がつくられ、「蓬州旧勝録」の著者とされる鈴木作助や、兵学の大家で「昔咄」の著者として知られる近松茂矩の住居があった(尾張志、尾州家分限帳)


西新町
にししんまち

[現在地名]津山市西新町

出雲往来の両側に東西に連なる町。西は中之なかの町、南は吉井川、北は上之うえの町の侍屋敷。出雲往来は中之町境の「おおまがり」で南にわずかに折れて東行する。「武家聞伝記」寛永五年(一六二八)条に「林田新町、出来」と記す。当時は東隣の東新町と併せて林田新はいだしん町と総称していた。「津山誌」によれば、同三年、佐々木太郎兵衛が東新町とともに城下への編入を藩に請うて実現したという。正保城絵図には町屋が記される。元禄町絵図では南の堤沿いに扶持人屋敷が記されているが、検討を要する。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳では西新町一丁目・二丁目として、家数六〇、本役三四軒、町筋東西一二二間・通道町幅二間二尺。


西新町
にししんまち

[現在地名]篠山市西新町

篠山城西方の外堀と岡屋おかや村の間に置かれた武家地で、一部は御徒士おかち町と称していた。西新町の町名は明治五年(一八七二)に公称されたもの。江戸時代には御徒士町のほか、西堀端にしほりばた石山横いしやまよこ町・中小路なかこじ・下小路などがあった。南部に文化二年(一八〇五)藩主青山忠裕が老女小木千衛のために改造した小林家の屋敷があり、曲折入母屋造茅葺の長屋門(県指定文化財)が知られる。


西新町
にししんまち

[現在地名]松任市西新町

北陸街道(本町通)の東に並行する新町通西端の両側町で本町。西はよこ町、東は東新町。東端近くから北へ金剣かなつるぎ宮へ至る道がある。寛文二年(一六六二)の間数改帳(松任町史)に新町がみえる。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に西新町がみえ、両側に町家の屋並が描かれている。


西新町
にししんまち

[現在地名]八尾町西新町

東新町の北西にある。寛政五年(一七九三)乗嶺屋四郎兵衛の請願によって東新町とともに町立てされた(八尾創立旧記)。慶応四年(一八六八)の本家家数四五・人数二二四、借家家数一八・人数六九、同居人家数八・人数三〇(郡方人別書上帳)


西新町
にししんまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

新町の西に続く備前街道に沿う両側町で、浅野氏時代に成立した(「赤穂由来記」吉栖家蔵)。城下町西口の西総門近くまでの三町四八間、家数三〇、うち借家九(宝永元年加里屋町絵図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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