1871年(明治4)8月9日、政府が開化政策の一つとして発した散髪・脱刀の自由をうたった法令。散髪については幕末からすでに行われ、「半髪(はんぱつ)頭をたたいてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。惣髪(そうはつ)頭をたたいてみれば王政復古の音がする。ジャンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と流行歌(はやりうた)にあるように、民衆には喜んで受け入れられた。しかし、旧士族層には反発する者もあり、76年にはこれに不満な教師たちが辞職願を出して閉校するという小学校も熊本県では生じている。また散髪の風潮が婦女子の断髪をも促し、そのため東京府は72年「婦女子散髪禁止」の告諭を発している。脱刀についても強制ではなかったが、76年帯刀禁止令(廃刀令)によって軍人、警察官以外は禁止となった。
[猪飼隆明]
『林屋辰三郎編『文明開化の研究』(1979・岩波書店)』
断髪・脱刀を自由とした1871年(明治4)8月9日の太政官布告。丁髷(ちょんまげ)を落とす断髪の風習はすでに幕末期に留学生や洋式調練をうけた諸藩兵の間に始まり,一般にもしだいに広まったが,この布告ののちは急速に普及し,文明開化の象徴とみられた。脱刀に関しては69年5月に外国官権判事の森有礼(ありのり)が公議所に建議したが,全員一致で否決された。この布告後も脱刀は容易には進まず,76年の廃刀令によって強行された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…江戸後期から明治にかけて,女子は少女期になると,髷をつけ,おたばこ盆,桃割(ももわれ),結綿(ゆいわた),島田と,嫁入前まで年齢に応じて結い分けられていた。【橋本 澄子】
[明治以降]
1871年(明治4)の〈散髪脱刀令〉は,従来の一般男子の丁髷(ちよんまげ)が外国と対等に付合いをする支障になるからという,外交上の目的から発せられたが,一般には〈文明開化のシンボル〉として受け取られていた。散髪令には男女別が明記されていなかったため,時代の先端をゆこうとする女性のなかに断髪する者が現れたが,翌年〈違式詿違(いしきかいい)条例〉で禁止された。…
…なお,農工商は一定の功績により名主・庄屋などが苗字や帯刀を許されることはあった。維新後廃刀論がおこり1869年(明治2)には公議所で森有礼が官吏軍人以外の廃刀を提案,これは否決されたが70年12月庶民の帯刀が禁止され,71年8月には散髪脱刀令が公布された。散髪は文明開化の象徴として普及したが士族の帯刀者は多く,75年12月陸軍卿山県有朋が徴兵令により武士の帯刀の必要はなくなったとして廃刀を建議し,廃刀令公布となった。…
※「散髪脱刀令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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