日置庄(読み)ひきのしよう

日本歴史地名大系 「日置庄」の解説

日置庄
ひきのしよう

西除にしよけ川中流西方に位置し、現日置荘北ひきしようきた町・日置荘西町・日置荘原寺ひきしようはらでら町・日置荘田中ひきしようたなか町・関茶屋せきちややなどを含む一帯に比定される。「へきのしょう」ともいった。

仁安二年(一一六七)正月日の蔵人所牒写(真継家文書)に「河内国丹南郡狭山郷内日置庄鋳物師等」とみえるのが早い。奈良興福寺領日置庄鋳物師が蔵人所供御人となって雑役を免除され、各々短冊を賜り、諸国七道、京中市町、和泉・河内両国の市津を往反して、鉄の売買を行っていた。この文書の年紀について問題が残るが、平安末期の河内鋳物師の状況を伝えるものとされている。また、同年一一月日の蔵人所牒写(同文書)では「河内国丹南郡狭山郷内異名日置住民本供御人番頭」とみえ、蔵人所年預惟宗兼宗が日置庄住人を本供御人・番頭として、諸国散在鋳物師に短冊を配り、これを蔵人所供御人として編成しようとしている。

日置庄
へきのしよう

藤原氏領。のち左女牛若宮さめうしわかみや(現京都市の若宮八幡宮社)領となり、醍醐だいご寺門跡の管領下に置かれる。所在地については、明応二年(一四九三)九月二八日の年紀をもつ日置八幡社蔵懸仏に「日置庄 八幡宮」の刻銘があり当社が日置庄に含まれていたことを示している。文保二年(一三一八)当庄と高倉法華堂領富吉庄との間で、生出島・六丈島とよばれる成州境について相論があり(壬生家文書)、庄の南東部で富吉庄と境を接していたことが知られる(→富吉庄。また、南北朝初期と推定される六条八幡新宮放生会用途注文(石清水菊大路家文書)に、日置庄所役の絹の負担形態が「堤破損以後」変化したとの記述があり、当庄は河川の氾濫の影響を直接受ける地理的条件のもとにあった。応永二五年(一四一八)一二月二九日付の斯波義淳遵行(醍醐寺文書)によれば、荘内に含まれる西野高村(現在地不詳)海西かいさい郡に属している。

日置庄
へきのしよう

現日置町一帯を荘域とする三条家の荘園で、立荘の時期や経緯などは不明。「注進案」によれば、湯本ゆもと(現長門市)平川治右衛門家所蔵の文治二年(一一八六)八月三日付文書に「日置せう」とあり、また承久三年(一二二一)一〇月には源包房が日置庄ならびに諸社を領知すべき旨の下知状をもらい(暦応二年三月二二日付日置八幡宮文書)、以後子孫代々にわたり八幡宮大宮司職を世襲したと伝える。弘安三年(一二八〇)二月一五日、日置庄の三条家目代は、八幡宮神田として計二町二段を大宮司源真恒に宛行い、同五年には三条大納言の袖判のある次の文書が残る(日置八幡宮文書)

日置庄
ひおきのしよう

雲出くもず川中流右岸の平野で田尻たじり条里遺構の東端に位置する。荘域も現今の日置地区を中心とした地域と思われ、「和名抄日置郷に比定できる。正安四年(一三〇二)の室町院領御領目録(八代恒治氏所蔵文書)に、後堀河天皇皇女暉子の管領する京都六条院領に「姫宮御分(伊勢)国日置庄西園寺」とみえる。永嘉門院使家知申状并御領目録(竹内文平氏所蔵文書)によれば六条院領。白河上皇から鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇に伝領され、承久の乱以後は後高倉院領となり、その妃北白川院を経て、建長元年(一二四九)室町院領となり、正安二年(一三〇〇)五月死去の後、幕府の調停によって皇室の大覚だいかく寺統と持明じみよう院統に二分され、日置庄は持明院統の伏見上皇へ伝領された。

日置庄
ひおきのしよう

豊前宇佐宮弥勒寺領の庄園。現在の日吉町北東部に比定される。弥勒寺庄ともいう。日置は「へき」とも読む。薩摩国建久図田帳には日置北ひおきほく郷内として「日置庄三十町」とみえ、領家は弥勒寺、下司は小野太郎家綱とある。元徳元年(一三二九)一〇月五日の鎮西下知状(島津家文書)所引の文治五年(一一八九)七月一九日付天野遠景下文によれば、万陽房覚弁が新田宮神人を相具して当庄の地頭大江家綱を追出したが、遠景は覚弁の行為を道理なしとして家綱の所職を安堵している。

日置庄
ひきのしよう

現上板町引野ひきの土成どなり高尾たかお周辺に比定される庄園。成立時期ならびに庄園領主などについては不明。天授五年(一三七九)三月二一日の長慶天皇綸旨(熊野新宮文書)に「阿波国日置庄」とみえ、南朝方の同天皇から紀伊熊野新宮に当庄地頭職が寄進され、祈祷が命じられている。しかし同天皇の時期に南朝方の勢力が著しく衰微していたことや当時の板西ばんざい郡地域が北朝方の勢力下にあったことなどを考えると、この綸旨がどの程度の効力をもちえたかは疑問があり、またそれと相まって熊野新宮による庄支配の実態についても不明とせざるをえない。

日置庄
ひおきのしよう

現立山町日中につちゆう付近か。鳥羽上皇の娘八条女院領の一つである安楽寿院領庄園として登場する。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(高山寺蔵山科家古文書)に、安楽寿院領の太政官符を帯びない一二庄園の一つとして越中国日置があげられている。「延喜式」神名帳登載の新川郡七座のうちの日置神社を中心に成立した庄園で、同社は皇室領の神社として位置付けられていた。嘉元四年(一三〇六)六月一二日には「日置社」として後宇多院より安堵され、やはり安楽寿院領として皇女昭慶門院憙子内親王の所領目録に載せられ、大覚寺統に伝えられた。元来高倉永定が後深草皇女遊義門院子に進めたが、改めて昭慶門院に伝えられた。

日置庄
ひおきのしよう

古代の多紀たき郡八郷の一つ日置郷(和名抄)に成立したとみられる中世の庄園。「篠山領地志」「篠山封疆志」は篠山盆地中央部の黒岡くろおか郡家ぐんげ沢田さわだを当庄域とするが、明らかではない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android