デジタル大辞泉
「日野俊基」の意味・読み・例文・類語
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ひの‐としもと【日野俊基】
- 鎌倉末期の公卿。大学頭日野種範の子。後醍醐天皇に登用され、討幕計画に参画。正中の変で捕えられたが許され、元弘元年(一三三一)には再び密謀がもれて捕えられ、鎌倉で斬殺された。元弘二年(一三三二)没。
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日野俊基
ひのとしもと
(?―1332)
鎌倉後期の公卿(くぎょう)。儒学者大学頭(だいがくのかみ)日野種範(たねのり)の子。名門の出ではなかったが、学問に優れていたため後醍醐(ごだいご)天皇の信頼を得て、1323年(元亨3)には蔵人頭(くろうどのとう)まで出世した。当時としては異例のことであった。日野資朝(すけとも)らとともに倒幕を目的とする会合である無礼講(ぶれいこう)に参加したが、計画の発覚により24年(正中1)資朝とともに六波羅探題(ろくはらたんだい)に捕らえられた(正中(しょうちゅう)の変)。しかし事件の中心人物とはみなされず許された。31年(元弘1・元徳3)天皇の再度の倒幕計画(元弘(げんこう)の変)の際に、吉田定房(さだふさ)の密告によって僧文観(ぶんかん)・忠円(ちゅうえん)らとともにふたたび六波羅探題に捕らわれて鎌倉に送られ、翌32年(元弘2・正慶1)6月3日鎌倉葛原岡(くずはらがおか)において斬(ざん)に処せられた。
[小林一岳]
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日野俊基
没年:正慶1/元弘2.6(1332)
生年:生年不詳
鎌倉後期の公卿。父は大学頭日野種範。元亨3(1323)年蔵人頭に任ぜられた。後醍醐天皇の側近として討幕運動に専念。天皇の密命を受けて,反幕勢力の実情を調査するために,山伏姿に変装して「国ノ風俗,人ノ分限」(『太平記』)をたずねて各地を歩き,楠木正成,新田義貞,足利高氏(尊氏)らと接触した。有名な「無礼講」も,かれの計画であったといわれている。酒席に美女をはべらせ,幕府の目をくらませつつ,討幕の謀略を重ねたが,三位房遊雅と土岐頼春の密告によって第1次討幕運動(1324年の正中の変)は失敗した。六波羅探題によって,日野資朝と共に捕縛され,鎌倉へ護送されたが,万里小路宣房の尽力によって赦免された。元弘1(1331)年,右中弁となったが,再度の討幕計画の失敗により,文観,円観らと共に捕らえられた(元弘の変)。討幕計画の首謀者として,鎌倉葛原岡で斬首された。
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日野俊基
ひのとしもと
[生]?
[没]元弘2=正慶1(1332).6.3. 鎌倉
鎌倉時代末期の廷臣。種範の子。下流の儒家の出であったが,後醍醐天皇の信任を得て,元亨3 (1323) 年蔵人。日野資朝らとともに天皇の討幕計画に加わった。正中1 (24) 年9月陰謀が発覚して六波羅探題に捕えられて鎌倉へ送られたが (→正中の変 ) ,翌年許された。こののちも討幕計画の中心として行動。元弘1=元徳3 (31) 年天皇の重臣吉田定房によって幕府へ密告され,捕えられて鎌倉に護送された。翌年天皇は隠岐に流され,俊基は謀反の急先鋒として斬られた。 (→元弘の乱 )
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日野俊基【ひのとしもと】
鎌倉末期の廷臣。大学頭種範の子。日野資朝とともに討幕計画に加わったが,1324年事前に露顕して捕らえられた(正中の変)。いったん許されたが,元弘の乱に再び捕らえられ,1332年,後醍醐天皇が隠岐(おき)に流された際,鎌倉で斬られた。
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日野俊基 ひの-としもと
?-1332 鎌倉時代の公家(くげ)。
元亨(げんこう)3年(1323)蔵人頭(くろうどのとう)となる。後醍醐(ごだいご)天皇の側近として,日野資朝(すけとも)らとともに討幕計画(正中(しょうちゅう)の変)に参加,謀議が発覚して捕らえられたが赦免。再度の討幕計画(元弘(げんこう)の乱)にも失敗,鎌倉におくられ,正慶(しょうきょう)元=元弘2年6月葛原岡(くずはらがおか)で殺された。
【格言など】古来の一句 死もなく生もなし 万里雲尽きて 長江水清し(辞世)
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日野俊基
ひのとしもと
?~1332
鎌倉末期の公卿。種範の子。後醍醐天皇の近臣。1323年(元亨3)後醍醐に抜擢されて蔵人頭(くろうどのとう)となり,後醍醐の倒幕計画に参画。24年(正中元)謀議が幕府に漏れて捕らえられ鎌倉に送られたが,許された(正中の変)。31年(元弘元)再び後醍醐の倒幕計画に参加したが,露見。捕らえられて鎌倉に送られ(元弘の乱),翌年殺された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
日野俊基
ひのとしもと
?〜1332
鎌倉末期の公卿
後醍醐 (ごだいご) 天皇の信任を得,日野資朝 (すけとも) らとともに討幕計画に参加。1324年正中の変では捕らえられたが許された。'31年元弘の変のとき,再び討幕をはかって捕らえられ,翌年鎌倉で斬られた。
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