早野巴人(読み)ハヤノハジン

デジタル大辞泉 「早野巴人」の意味・読み・例文・類語

はやの‐はじん【早野巴人】

[1676~1742]江戸中期の俳人下野しもつけの人。通称甚助別号夜半亭など。江戸へ出て宝井其角服部嵐雪師事門下与謝蕪村がいる。

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精選版 日本国語大辞典 「早野巴人」の意味・読み・例文・類語

はやの‐はじん【早野巴人】

  1. 江戸中期の俳人。下野国(栃木県)烏山の人。本名甚助。別号夜半亭・宋阿など。其角・嵐雪に師事。師の没後江戸俳壇にあって世俗をきらい独自の風格を保つ。のち京都に移住、京都俳壇にその地位を築いたが、晩年再び江戸に下り日本橋石町(こくちょう)の夜半亭に居を定めた。蕪村親交があり、天明俳壇革新に力があった。編著に「一夜松」「桃桜」など、句集に「夜半亭発句帖」がある。延宝五~寛保二年(一六七七‐一七四二

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朝日日本歴史人物事典 「早野巴人」の解説

早野巴人

没年:寛保2.6.6(1742.7.7)
生年:延宝4(1676)
江戸中期の俳人。通称は甚助。別号は竹雨,宋阿,郢月泉,夜半亭。下野国烏山(栃木県那須郡)に生まれたが,はやくに江戸へ出た。俳諧は,榎本其角,服部嵐雪に師事した。両師他界後は,高野百里,稲津祇空らと親交を重ねた。享保半ばに京へ移住して,約10年間滞在。元文2(1737)年に再び江戸に下る。東下後,日本橋石町に夜半亭を結び,若き与謝蕪村や砂岡雁宕らを指導。かつ若きころを懐しみつつ風雅に遊んだ。その高邁な精神は,蕪村に示唆した「師の句法に泥むべからず」に明らかである。<参考文献>潁原退蔵「夜半亭巴人」(『潁原退蔵著作集』13巻)

(楠元六男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「早野巴人」の解説

早野巴人 はやの-はじん

1676-1742 江戸時代中期の俳人。
延宝4年生まれ。榎本其角(えのもと-きかく),服部嵐雪(らんせつ)にまなぶ。江戸日本橋にすみ夜半亭と称した。門人に与謝蕪村(よさ-ぶそん)ら。寛保(かんぽう)2年6月6日死去。67歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。名は忠義。通称は甚助。別号に宋阿,郢月泉(えいげつせん)など。編著に「一夜松」「桃桜」。
【格言など】伊勢近し尾花が上の鰯雲(いわしぐも)(「夜半亭発句帖」)

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世界大百科事典(旧版)内の早野巴人の言及

【巴人】より

…江戸中期の俳人。姓は早野,名は甚助。別号は宋阿,夜半亭。下野烏山の人。江戸に出て其角,嵐雪に学び,百里,祇空らと交わる。1727年(享保12)京に移住して宋屋らを導き,10年後江戸に帰って夜半亭を結び,蕪村,雁宕らを育てた。俗化する俳壇にあって清高の気品を保ち,その人格と識見は蕪村を大いに感化した。句は平静淡雅である。〈小夜時雨船え鼠のわたる音〉(《夜半亭発句帖》)。【田中 道雄】…

※「早野巴人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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