景福寺(読み)けいふくじ

日本歴史地名大系 「景福寺」の解説

景福寺
けいふくじ

[現在地名]鳥取市新品治町・寿町

新品治しんほんじ町南東方にある。近世には鳥取城下新鋳物師しんいもじ町から新品治町にかかる曲り角、伯耆街道筋の寺院が集中する地域の南東に位置していた。瑞松山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。幕末の寺域は二千四〇八坪、末寺は九ヵ寺、塔頭周源しゆうげん院・龍華りゆうげ院の二院があった(明治四年「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。倉吉荒尾家帰依の禅林で同家先祖代々の菩提寺。荒尾家は封ぜられた国で各々景福寺を建立しており、慶長七年(一六〇二)播磨姫路に開創されたのをはじめ、池田忠継・忠雄の転封に従い、淡路・備前岡山にも建立された。

景福寺
けいふくじ

[現在地名]猪名川町杉生

杉生すぎおの東部にある。瑞松山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。明和三年(一七六六)刊の「多田庄六瀬瑞松山景福禅寺稽古伝並中興記」によると、明徳四年(一三九三)に摂丹境永沢ようたく(現三田市)四世の一経永就が開き、通幻寂霊を開山とし、自らはその二世となった。六瀬むつせの土豪平尾氏の援助があり、初め慶福けいふく寺と号した。通幻は応安二年(一三六九)杉生に来て平尾景勝の屋敷に滞在中、老翁の姿をした伊勢五十鈴いすず川の明神から託宣を受け、同七年に永沢寺を開創、厳しい禅風が天下に知られたが、永就は通幻十哲の一人であった。のち当寺は景福寺と改称、一経の法嗣である実底超真・物先永草らによって継承され、永泰ようたい寺など末寺数十を創立したが、天正年間(一五七三―九二)平尾一族の没落により一一世大桂宗易は寺を加古郡阿閇あえ庄の古向こむかい城跡(現播磨町)に移した。

景福寺
けいふくじ

[現在地名]姫路市景福寺前

姫路城の西にあたる景福寺山南麓にある寺。曹洞宗、本尊は釈迦如来。当寺は摂津国川辺かわべ六瀬むつせ(現猪名川町)領主平尾頼通が通幻寂霊に開基させたもので、邸内の古松にちなみ瑞松山と号した。六瀬にあった寺を応安年間(一三六八―七五)寂霊が神託を受けたとして摂津国青原に移したが、天正年間(一五七三―九二)に兵火にかかった。このため姫路に移り姫路藩主池田輝政に請うて坂田さかた町に建立した。寛延二年(一七四九)藩主松平朝矩が前橋まえばし(現群馬県前橋市)に移ると、新藩主酒井忠恭の命で増位ますい(現在の景福寺山)麓の松平氏の菩提所孝顕こうけん寺の跡地へ移された(大正八年刊「姫路市史」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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