曇徴(読み)ドンチョウ

デジタル大辞泉 「曇徴」の意味・読み・例文・類語

どんちょう【曇徴】

7世紀の高句麗こうくりの僧。推古天皇18年(610)渡来五経通じ彩色絵画)、紙墨製法水力を利用した臼の製法を伝えたという。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「曇徴」の意味・読み・例文・類語

どんちょう【曇徴】

  1. 飛鳥時代高麗の僧。推古天皇一八年(六一〇)に来日儒教および彩色、紙墨の製法、碾磑(てんがい)など当時の文化を伝えたという。生没年不詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「曇徴」の意味・わかりやすい解説

曇徴 (どんちょう)

高句麗からの渡来僧。生没年不詳。《日本書紀》によると,610年(推古18)高句麗の嬰陽王が法定とともに朝廷に貢上した。よく彩色(絵具),紙,墨をつくり,あわせて碾磑てんがい)/(みずうす)を製作した。製紙技術はすでに中国あるいは朝鮮から伝えられていたとみられ,曇徴はさらに良質の紙の製法をもたらしたのであろう。水力を利用した臼はこのときに始まるという。また五経に通じた。《聖徳太子伝暦》には法隆寺に住したとある。
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朝日日本歴史人物事典 「曇徴」の解説

曇徴

生年:生没年不詳
7世紀初めの高句麗の僧。推古18(610)年3月に嬰陽王の貢上として,法定 と共に来日。仏教以外の知識として五経(儒教)に通じ,彩色(絵の具),紙墨,碾磑の製作技術を伝えた。碾は精米機,磑は精粉機で,いずれも水力を使用する。『日本書紀』は碾磑を造ることはこれから始まるとする。紙墨の製作はこれ以前に伝来していたので,良質の製法を伝えたのだろう。これらの技術は広く文化の発展に貢献した。聖徳太子により,斑鳩宮(法隆寺東院)に召されたとき,曇徴と法定は前世において南岳恵思禅師の弟子だったと述べたので,法隆寺に止住することとなった(『聖徳太子伝暦』による)という。

(松木裕美)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「曇徴」の意味・わかりやすい解説

曇徴
どんちょう

生没年不詳。7世紀の高句麗(こうくり)(朝鮮)の僧。610年(推古天皇18)3月、高句麗嬰陽(えいよう)王(在位590~618)の命により、僧法定(ほうじょう)(生没年不詳)とともに来日。五経に通じ、またよく彩色(絵の具)、紙墨をつくり、さらに碾磑(みずうす)(水力を利用した臼(うす))をつくったことが『日本書紀』にみえる。紙の製造については、日本における文献上の初見であり、また、碾磑は日本ではほとんど普及しなかったが、その製造の初めとして注目されている。

[二葉憲香 2017年3月21日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「曇徴」の解説

曇徴 どんちょう

?-? 高句麗(こうくり)(朝鮮)の僧。
推古天皇18年(610)に嬰陽(えいよう)王の命で僧法定(ほうじょう)とともに渡来。五経に通じ,また絵の具や紙・墨をつくり,碾磑(みずうす)(水力を利用した臼(うす))を製作したという。「聖徳太子伝暦」には,聖徳太子がふたりを斑鳩宮(いかるがのみや)にまねき,ついで法隆寺にとどまらせたとある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「曇徴」の解説

曇徴
どんちょう

生没年不詳。7世紀の高句麗からの渡来僧。610年(推古18)高句麗王から貢上されて法定(ほうじょう)とともに来朝。五経に詳しく,よく彩色(絵具)・紙墨を作り,また碾磑(みずうす)(水力を利用した臼)も造ったという。「聖徳太子伝暦」によると,聖徳太子は曇徴を斑鳩宮(いかるがのみや)に招き,ついで法隆寺に止住させたという。

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百科事典マイペディア 「曇徴」の意味・わかりやすい解説

曇徴【どんちょう】

推古天皇18年(610年)に来朝した高句麗(こうくり)の仏僧。生没年不詳。儒教の五経,絵画の彩色の法,紙・墨の製法,農具まで伝えたとされるが,確証はない。
→関連項目和紙

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「曇徴」の意味・わかりやすい解説

曇徴
どんちょう

推古18(610)年に来朝した高句麗の僧。儒学,絵画工芸,紙墨彩色から農具までも伝え碾磑(てんがい,みずうす)をつくったといわれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「曇徴」の解説

曇徴
どんちょう

生没年不詳
7世紀前期に来日した高句麗の僧
610年高句麗王の命で来日,紙・墨・絵具を伝えた。五経に通じ,絵画をよくした。作品は現存しない。

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世界大百科事典(旧版)内の曇徴の言及

【飛鳥美術】より

…憲法十七条制定の604年,黄文画師(きふみのえかき)や山背画師など,画師の区分が定められたが,はじめに高句麗出身の黄文画師をかかげるところに,その存在の大きさがうかがえる。《日本書紀》によれば610年高句麗王は,彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上するが,これは日本における画材の需要増大を反映しているとともに,その技術が高句麗からもたらされた点が注目される。また605年鞍作止利に銅・繡の丈六仏像各1軀を造らせたところ,高句麗王がこれを聞いて黄金300両を貢しており(紀),ここにも高句麗との関係がうかがえる。…

【紙】より

…製紙術の伝来についての注目すべき記事は,《日本書紀》にみえる推古18年(610)の文である。この年3月に来朝した高句麗の僧曇徴(どんちよう)は〈五経を知り,またよく彩色及び紙墨を作り,そのうえ碾磑(てんがい)を造る〉という。製粉用の碾磑については,とくに〈碾磑を造ること,ここに始まる〉と書かれているが,紙などについてはこうした記載はない。…

【墨】より

… なお墨は元来実用の具であり,消耗品ではあるが,一面ではその形状,色沢,芳香などを賞美する趣味が五代ごろから起こり,明・清に至って多くの愛墨家が輩出している。
[日本]
 日本における製墨の起源については,《日本書紀》推古18年(610)春3月条に,高麗(こま)(高句麗)の僧曇徴(どんちよう)が入朝し,製紙・製墨の法を伝えたという記事が最も古い。しかし,古墳時代の壁画に黒,朱,緑,黄などの彩色がすでに用いられているので,墨は相当早い時期に中国または朝鮮から輸入されていたと想像される。…

【筆】より

…このうち《千字文》は手習用を主眼としたので,筆は5世紀ごろにはすでに一部の人々に使われていたとみられる。また同推古18年(610)3月条には高麗(高句麗)僧曇徴(どんちよう)が紙墨の製法を伝えたとされ,製筆の法もこのとき伝えられたと考えられる。奈良時代には写経や公文書を作成するために多くの筆が必要となり,中務(なかつかさ)省図書寮内に造筆手10人が置かれ,諸国から貢進される筆も少なくなかった。…

※「曇徴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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