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(松木裕美)
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生没年不詳。7世紀の高句麗(こうくり)(朝鮮)の僧。610年(推古天皇18)3月、高句麗嬰陽(えいよう)王(在位590~618)の命により、僧法定(ほうじょう)(生没年不詳)とともに来日。五経に通じ、またよく彩色(絵の具)、紙墨をつくり、さらに碾磑(みずうす)(水力を利用した臼(うす))をつくったことが『日本書紀』にみえる。紙の製造については、日本における文献上の初見であり、また、碾磑は日本ではほとんど普及しなかったが、その製造の初めとして注目されている。
[二葉憲香 2017年3月21日]
生没年不詳。7世紀の高句麗からの渡来僧。610年(推古18)高句麗王から貢上されて法定(ほうじょう)とともに来朝。五経に詳しく,よく彩色(絵具)・紙墨を作り,また碾磑(みずうす)(水力を利用した臼)も造ったという。「聖徳太子伝暦」によると,聖徳太子は曇徴を斑鳩宮(いかるがのみや)に招き,ついで法隆寺に止住させたという。
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…憲法十七条制定の604年,黄文画師(きふみのえかき)や山背画師など,画師の区分が定められたが,はじめに高句麗出身の黄文画師をかかげるところに,その存在の大きさがうかがえる。《日本書紀》によれば610年高句麗王は,彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上するが,これは日本における画材の需要増大を反映しているとともに,その技術が高句麗からもたらされた点が注目される。また605年鞍作止利に銅・繡の丈六仏像各1軀を造らせたところ,高句麗王がこれを聞いて黄金300両を貢しており(紀),ここにも高句麗との関係がうかがえる。…
…製紙術の伝来についての注目すべき記事は,《日本書紀》にみえる推古18年(610)の文である。この年3月に来朝した高句麗の僧曇徴(どんちよう)は〈五経を知り,またよく彩色及び紙墨を作り,そのうえ碾磑(てんがい)を造る〉という。製粉用の碾磑については,とくに〈碾磑を造ること,ここに始まる〉と書かれているが,紙などについてはこうした記載はない。…
… なお墨は元来実用の具であり,消耗品ではあるが,一面ではその形状,色沢,芳香などを賞美する趣味が五代ごろから起こり,明・清に至って多くの愛墨家が輩出している。
[日本]
日本における製墨の起源については,《日本書紀》推古18年(610)春3月条に,高麗(こま)(高句麗)の僧曇徴(どんちよう)が入朝し,製紙・製墨の法を伝えたという記事が最も古い。しかし,古墳時代の壁画に黒,朱,緑,黄などの彩色がすでに用いられているので,墨は相当早い時期に中国または朝鮮から輸入されていたと想像される。…
…このうち《千字文》は手習用を主眼としたので,筆は5世紀ごろにはすでに一部の人々に使われていたとみられる。また同推古18年(610)3月条には高麗(高句麗)僧曇徴(どんちよう)が紙墨の製法を伝えたとされ,製筆の法もこのとき伝えられたと考えられる。奈良時代には写経や公文書を作成するために多くの筆が必要となり,中務(なかつかさ)省図書寮内に造筆手10人が置かれ,諸国から貢進される筆も少なくなかった。…
※「曇徴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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