曲村(読み)まがりむら

日本歴史地名大系 「曲村」の解説

曲村
まがりむら

[現在地名]宗像市曲・自由(じゆう)ヶ丘(おか)一―九丁目

釣(つり)川支流朝町(あさまち)川下流域、朝町村の北西に位置する。中世宗像社修理料四〇町の地があったので本村を宮田(みやた)という(続風土記拾遺)。寛喜三年(一二三一)三月日の筑前国庁宣(宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文六)に「曲村」とみえ、当村四〇町を宗像社修理料所とするよう庁宣が出され、同年四月五日には官宣旨(同上)が出されている。官宣旨によると、宗像社大小七〇余社の修理料は数百年来遠賀(おんが)郡葦屋(あしや)津(現芦屋町)から糟屋(かすや)郡新宮(しんぐう)浜(現新宮町)に至る間の難破船の寄物で沙汰されてきたが、往阿弥陀仏が孤島を築いたために寄物がなくなったので、曲村田地が社領として修理用途に充てられた(→金埼・鐘崎)。貞永元年(一二三二)七月二六日、幕府は宗像社と地頭中原季時(法名行阿)が相論していた宗像社修理料筑前国東(とう)郷内曲村四〇町について、当村は多年地頭請所であるが宗像社領となっているという理由で本所の進止にするとして、社家の主張を認めている(「関東下知状案」同上)。しかし仁治二年(一二四一)六月三日、幕府は大宰少弐藤原為佐に宗像社領曲村は先例に任せて地頭請所としていたが、住人百姓らが従わないので先の下知を守り、地頭請所として相違なく沙汰させるように命じている(「関東御教書」同文書/鎌倉遺文七)。


曲村
まがりむら

[現在地名]能登島町曲

向田(こうだ)村の西一一町に位置し、七尾北湾に面した村。村の前面に七(なな)ッ島が点在する。嘉吉三年(一四四三)八月の伊夜比神社本殿造営棟札(伊夜比神社蔵)に「勾村」地頭富田三郎右衛門尉慶行と代官辻本行宗がみえる。文明一三年(一四八一)一月一一日の能登島八ヶ村公田田数注文(伊夜比神社文書)によると、一宮気多社の二斗米(段銭)賦課の対象とされていた「鉤村」の公田数は五町九〇刈で富田殿の知行であるが、戦国後期頃には富来氏が給人となっていたという(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)。なお永正年間(一五〇四―二一)には、若松(わかまつ)本泉寺門徒の鉤村宗教が本願寺実如から阿弥陀如来絵像(妙覚寺蔵)を下付されている。

天正一三年(一五八五)六月一八日の免定写(当摩文書)に「まかり」とみえ、免引は三ツ。


曲村
まがりむら

[現在地名]北条町曲

北尾(きたお)村の西に位置し、北は北条川を挟んで松神(まつがみ)村。地内の東山田頭(ひがしやまだがしら)・南東山田(みなみひがしやまだ)・中東山田(なかひがしやまだ)などは山田別宮に関係する地名と考えられている。定光(じようこう)寺(現倉吉市)の過去帳(北条町誌)によれば元禄一二年(一六九九)頃までは吉岡村とも称したらしい。拝領高は六九八石余、本免は五ツ三分。藪役銀三五匁を課されており(藩史)、菅氏の給地であった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高七七〇石余、竈数四〇余。


曲村
まがりむら

[現在地名]三田市藍本(あいもと)

上相野(かみあいの)村の北に位置し、北西は丹波国多紀(たき)郡立杭(たちくい)村(現篠山市)に接する。古くは武庫(むこ)川の中洲に位置し、中(なか)村と称していたが、同川が村内の穴口(あなぐち)山の麓で一八〇度Uターンしているので曲村と改称されたという。丹波への道が通る。永禄一三年(一五七〇)六月一六日の森鼻重頼・同左衛門大輔連署田地寄進状(清水寺文書)によると、森鼻重頼らは「藍庄之内曲村」内の田地一反を清水(きよみず)寺(現社町)に寄進している。慶長国絵図にマカリ村とみえ高一六七石余。


曲村
まがりむら

[現在地名]勝山町曲(まが)り

井田(いだ)川の狭い河岸段丘上に位置する。山に囲まれ、南は清谷(せいたに)村、東は古呂々尾中(ころろびなか)村、西に備中国境の京見(きようみ)山がある。中世後期、広峯(ひろみね)神社(現兵庫県姫路市)御師の檀那場で、文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「たきのうへの衛門」、年未詳の檀那村書(同文書)に「たきノうゑ村」、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(同文書)に「ころゝひまかり村一円」と当地の地名がみえる。正保郷帳に村名がみえ、田高五六石余・畑高六二石余。「作陽誌」によれば古呂々比(ころろび)五ヵ村の一で満加利村と記し、元禄三年(一六九〇)に「曲」の字を忌んで村名を改めたとある。


曲村
まがりむら

[現在地名]松阪市曲町

北は一志郡上(かみ)ノ庄(しよう)村(現三雲村)、南は殿(との)村、東は船江(ふなえ)村、西は野(の)村と境を接する。堀坂(ほつさか)川は伊勢寺(いせでら)村より当村を経て上ノ庄へ至る。中世は伊勢神宮領ならびに園城寺領の御厨・御園が成立していたが、近世は和歌山藩松坂領。


曲村
まがりむら

[現在地名]豊田市鍋田(なべた)町

巴(ともえ)川の松平橋より上流の南岸に位置する。大楠(おおぐす)―簗山(やなやま)―曲―鍋田―九久平(くぎゆうだいら)を結ぶ里道が通る。字上タカウタには梟(きよう)ヶ城とよばれる山城跡がある。城主は不明。標高二五三メートルの高さに削平地・削崖・石垣が残る(松平町誌)。


曲村
まがりむら

[現在地名]金沢市湯涌曲町(ゆわくまがりまち)

河内(かわち)村に隣接し、河内谷の谷間に位置する。正保郷帳では河内村と併記され、両村合せて高一一七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六七石・免四ツで、ほかに山役六三匁・炭役二八匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数五・百姓数七(高免付給人帳)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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