有川湾(読み)ありかわわん

日本歴史地名大系 「有川湾」の解説

有川湾
ありかわわん

五島列島の北端にある湾。有川町の北方、新魚目しんうおのめ町の東手に広がり、北東の志々岐しじき灘に続く海域となっている。中世よりかます網代漁などの漁労が行われ、譲与や相論の対象になっていたが、近世には鯨組による捕鯨で知られる。

〔捕鯨の浦〕

慶長三年(一五九八)魚目浦で鯨の突取法が始められ(日本漁業経済史)、同一七年に大村の深沢儀太夫が魚目浦を拠点として突取法による捕鯨を行ったという(鯨史稿・有川町捕鯨史)。儀太夫勝清は紀州熊野での見聞から鯨組が水軍としても機能することを福江藩主に提言して賛同を得ており、鯨組を槍組と称したのもそうした事情によるものであろう。二代目儀太夫は太地たいじ(現和歌山県太地町)で網漁による捕鯨法を習得、延宝六年(一六七八)に一五ヵ年の請浦を認められ、鯨長者とよばれるほどの富を得たという。また貞享二年(一六八五)小田伝兵衛(重憲)と魚之目の中野喜左衛門の鯨組が下柳田しもやなだ(現小値賀町か)前で捕鯨を行い、正徳三年(一七一三)には小田伝次右衛門が網組を使って捕鯨を行っている(重利一世年代記)

一方、有川村の地先では寛永元年(一六二四)肥前呼子よぶこ(現佐賀県呼子町)の田中源右衛門が操業し(西海鯨鯢記)、同三年には紀州湯浅ゆあさ(現和歌山県湯浅町)の庄助が有川の船津ふなつに居を構えて捕鯨を始め(捕鯨志)、また有川の名主の江口甚右衛門が紀州古座こざ(現同県古座町)の三郎太郎を招いて操業したとされ(有川町捕鯨史)、いずれも突漁による捕鯨であったという。この有川の突組が五島捕鯨の起りともいう。さらに甚右衛門は儀太夫の網漁に刺激され、宇久うく(現宇久町)の山田茂兵衛とともに大規模な鯨組を作っている。こうして正保―慶安年間(一六四四―五二)有川浦に一〇組、天和年間(一六八一―八四)魚目浦に八組の鯨組が置かれ、うち紀州出の者は一三組で、ほかは長崎・大村・宇久および魚目・有川・奈留なる(もやい)が各一組であった(「鯨突組覚」五島編年史)。貞享元年有川浦が宇久島の山田茂兵衛を招いて鯨組を経営した際、その職手は加子を備後とも(現広島県福山市)・同田島たしま(現同県内海町)・周防上関かみのせき(現山口県上関町)・大村、羽差を宇久島・紀州熊野、筑前鐘崎かねざき(現福岡県玄海町)・同野北のぎた(現同県志摩町)壱岐島・呼子、船大工を安芸倉橋くらはし(現広島県倉橋町)、網大工を田島から集めている。

〔魚目方と有川方の相論〕

寛永四年有川村庄屋の江口甚右衛門と魚目村庄屋の川崎伝右衛門との相論など早くから海境論が起きている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「有川湾」の意味・わかりやすい解説

有川湾
ありかわわん

長崎県西部、南松浦(みなみまつうら)郡新上五島町(しんかみごとうちょう)にある湾。五島列島の中通島(なかどおりじま)北部に位置する。寛文(かんぶん)~元禄(げんろく)年間(1661~1704)五島藩に属する有川側と、富江(とみえ)藩に属する魚目(うおのめ)側とで海境を争ったが、湾の中心線を境界とすることで決着し、1691年(元禄4)から有川鯨組が組織され、湾内捕鯨が行われ、明治末年まで続いた。現在は定置網漁業が盛んで、新魚目町、北魚目、有川町の3漁業協同組合による水揚げは、五島における定置網による水揚げの多くを占める。またイルカ追い込み漁は、イルカの大群が入湾したときに限って、北魚目、有川町の両漁協の共同で行われ、湾奥の蛤浜(はまぐりはま)または浦桑(うらくわ)の浜に追い込まれる。捕獲されたイルカは両岸の全住民に均分され、すべて自家消費される。

[石井泰義]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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