「心あり」ともいう。一般には自然、人事を問わず対象に深い理解をもつことで、そのため思慮がある、情を解するなどの意味となり、その逆が「無心」である。歌の場合、平安時代以降は題詠が普通なので、対象となる題の「本意(ほんい)」すなわち題の真実の性質・状態と考えられていたものに深い理解を示すことが有心とされた。しかも当時の詠歌法は「風情(ふぜい)」(趣向)の巧拙を主眼としたので、有心とはまず巧緻(こうち)な風情を意味し(『天徳(てんとく)四年内裏(だいり)歌合』〈960〉の8番の判詞(はんし)など)、ついで表現された情意の深さとされた。藤原公任(きんとう)(966―1041)の『新撰髄脳(しんせんずいのう)』に区別されている2種の心のうち「をかしき」心が前者に、「深き」心が後者に対応しよう。平安末期になると、この風情中心の詠歌法が変革され、風情よりも、風情を巡らす心の働きに反省が向けられる。すなわち、題の本意を単に知的に扱うのではなく、情意を込めてそのなかに没入し、深奥にある、ことばでは言い表せないものを感得することが要求された。この新しい心の働きを第三の有心とよんでよい。その結果、意味のおもしろさより映像や情調による縹渺(ひょうびょう)とした効果が重視され、それを藤原俊成(しゅんぜい)(1114―1204)は幽玄とよんだが、この手法は藤原定家(ていか)(1162―1241)によってさらに追究されて新古今時代に至る。しかし承久(じょうきゅう)(1219~22)前後からまた厳しい批判や反省がおこり、上記の有心を「やすやすとありのまま」(『八雲御抄(やくもみしょう)』)に表現することが奨励された。定家作と伝える『毎月抄(まいげつしょう)』の有名な有心論もこの段階のものである。その後、幽玄は優美・典雅といった審美的な意味に変わり、歌の本質または理想の境地として位置づけられるが、それとともに有心も歌論の中心課題となった。そのなかで、むしろ有心に幽玄以上の関心を寄せたのが連歌論の心敬(しんけい)(1406―75)と能楽論の世阿弥(ぜあみ)(1363―1443)で、いずれも仏教的な心地修行の厳しさと有心とを一体とみている。ことに後者は、用語の問題ではあるが、有心の語を捨てて「無心」をとり、有心論の極致としての無心論に到達しているのが注目される。
[田中 裕]
平安朝では日常語として,〈あまり有心過ぎてしそこなふな〉(《枕草子》)など,〈無心〉と対で用いられ,思慮分別や風流心があるという意。中世では,〈柿本は世の常の歌これを有心と名づく。栗本は狂歌これを無心と名づく〉(《井蛙抄》),〈有心無心の連歌〉(《吾妻問答》)など,優雅な和歌やそれに類した優美な連歌をさし,またこのような和歌・連歌の様式美をさす歌学用語ともなった。歌合判詞では,人や歌の心が深くこもることを賞して〈心あり〉とする用例が多いが,この伝統と藤原俊成の幽玄とが母胎となり,藤原定家の有心理念が形成される。とくに〈いづれの体にてもただ有心の体を存ずべきにて候〉(《毎月抄》)など,すべてにわたって基本とされるに及び,中世文学論の重要理念となった。新古今時代には妖艶美に傾斜し,鎌倉末期には理世撫民体と結びつき,思想性,倫理性が付与されるなど,多様な美的様相をも示す。
執筆者:上条 彰次
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