日本大百科全書(ニッポニカ) 「有機反応論」の意味・わかりやすい解説
有機反応論
ゆうきはんのうろん
physical organic theory
有機化学反応を反応速度論的に研究して、反応系の遷移状態の構造を推定して反応機構を理解する学問分野をいう。有機化学反応は求電子反応、求核反応、ラジカル反応に分類される。以下に有機反応論による有機反応の基本的な取扱いについて述べよう。
最初に置換反応についてみることにしよう。芳香族化合物の置換反応は通常、求電子的な反応で、σ(シグマ)錯体とよばれる陽イオンの中間状態を経由して進行する( の(1))。これは対照的に飽和炭素上での置換反応は求核的な反応で、イギリスのインゴルドらによる研究から、SN1、SN2、SNiとよばれる異なる反応経路で進むことが知られている。SN1反応は一分子的な求核置換反応で炭素陽イオンを経由して進行する( の(2))。SN2反応は二分子的な求核置換反応で置換をおこす基(求核試薬)と離れていく基(脱離基)の両者が反応中心の炭素に結合している5配位炭素を経由して進行する( の(3))。SN1とSN2の反応は、SN1では生成物のラセミ化がおこるが、SN2では立体配置の反転(ワルデン反転)がおこるので区別できる。SNi反応は本質的にはSN2反応であるが、分子内の反応であるため立体配置が保持された生成物を与える( の(4))。脱離反応も置換反応と同じく、一分子的および二分子的経路で進み、それぞれE1反応とE2反応に区別される( の(5)、(6))。ここでSは置換substitution、Eは脱離eliminationを表す略号であり、小さい大文字のEは求電子(反応)electrophilic、小さい大文字のNは求核(反応)nucleophilic、1と2はそれぞれ一分子反応と二分子反応を表している。
一分子反応か二分子反応かは、反応の速さが反応物の濃度にどのように依存するかを調べるとわかるので、この方法により反応のメカニズムの解明が可能になる。このように反応速度の測定と解析により反応の機構を研究する方法を反応速度論kineticsといい、有機反応論においてもっとも重要な方法論である。
反応速度および平衡に対する置換基効果を経験的に解析して、反応速度論と有機電子論などの電子理論との橋渡しをしたのが、アメリカのハメットLouis Plack Hammett(1894―1987)らであり、芳香環上の置換基の電子的効果と反応速度とを関係づけたハメット則は有機反応論においてもっとも重要な法則の一つである。
有機反応を反応系の分子構造と関連づけて論ずることは、量子力学が誕生して、分子の構造や電子状態が量子力学的に論じられるようになって以来急速に発展した。量子力学を基礎としてアメリカのポーリングにより提案された原子価結合法は、有機化学の分野で共鳴の概念の応用の道を開き、有機電子論が完成された。これとほぼ同時に、ドイツのヒュッケルにより分子軌道理論が有機化学に応用された。
分子軌道理論の有機化学への応用は、初期にはこの方法が定量的であるという長所を生かして、反応性指数により反応性を定量的に評価する方向に進んだ。その後R・ホフマンによる軌道対称性保存則、福井謙一らによるフロンティア電子理論のように、有機反応に関する一般的に広く通用する法則が分子軌道理論を基礎にして確立されている。
今日では、コンピュータの進歩により、巨大なメモリーを要する多分子系についての精密な計算を速い速度で行えるようになったので、反応経路に沿って反応系全体について各原子の三次元的配列と系のエネルギー曲面を計算して反応経路を精密に解析・予測することも可能になっている。他方では、反応過程における分子構造を実験的に調べる分光学的方法の進歩も目覚ましく、有機反応論は理論と実験の両側面から進歩を続けている。
[廣田 穰 2016年11月18日]
『奥山格・友田修司・山高博編『有機反応論の新展開』(1995・東京化学同人)』▽『橋本静信・村上幸人・加納航治著『基礎有機反応論――反応機構からみた有機化学』新版(2001・三共出版)』▽『奥山格・山高博著『有機反応論』(2005・朝倉書店)』