朝鮮演劇(読み)ちょうせんえんげき

改訂新版 世界大百科事典 「朝鮮演劇」の意味・わかりやすい解説

朝鮮演劇 (ちょうせんえんげき)

朝鮮における演劇の始まりは,夫余の迎鼓,高句麗の東盟,濊(わい)の舞天などの祭天儀式における歌舞百戯に求められる。具体的な演目は三国時代のものが知られている。高句麗の舞楽は西域楽の影響を受けて発達したものであり,隋・唐の九部伎や十部伎の中の〈高麗伎〉として知られ,日本にも高麗楽(こまがく)として伝えられた。百済も同じく大陸系統の散楽百戯の影響をうけたが,特に〈伎楽〉を7世紀初めに日本に伝えたことは特記すべきであろう。この百済の伎楽が現在の韓国における仮面劇の母体であるとの説もある。新羅は7世紀の後半に三国を統一し,加羅(伽倻),百済,高句麗などの舞楽を集成し,剣舞,無㝵(むがい)舞,処容舞,五伎などの形で後世に伝えた。剣舞は仮面を着用し,演劇性をおびた仮面童子舞であり,唐代の剣器舞の影響がみられる。無㝵舞は西域より伝来された仏教歌舞であり,日本の空也念仏と同類型のものと思われる。処容舞は,高麗,李朝を通じて宮中宴や追儺(ついな)に仮面をかぶって演じられた怪異豪放な舞劇であり,のちには両班(ヤンバン)(貴族)私家の宴楽舞としても舞われた。五伎は金丸,月顚,大面,束毒,狻猊をさすが,中国と西域伝来の〈散楽〉などの影響下に形成された三国楽を総合したものである。

高麗時代には新羅の八関会(はちかんえ)や燃灯会を継承し,同時に新羅以来の歌舞百戯を演じたが,その内容は李穡(りしよく)の〈山台雑劇〉の詩で推測できる。装飾された舞台である山台(綵棚)で処容舞をはじめ各種の歌舞と散楽系の各種曲芸をみせるものであった。このほか,凶礼である追儺のおりにも疫鬼を追ったあと,俳優による百戯が演じられた。祭舞,呑刀,吐火などの奇伎や,西域胡人戯,竹馬,処容舞,傀儡戯,百獣舞などの演目である。このような儺戯とともに職業的な才人(ジエイン),広大(クワンデ)らによる雑戯が12世紀の記録にみえている。また功臣を追慕,記念するための演劇や,権勢家の家臣の横暴をあばく風刺劇なども行われたことがうかがえる。

 なお広大は語源的には傀儡や仮面を意味し,のちには人形劇や仮面劇,綱渡り,とんぼ返りなどの曲芸をみせる俳優を意味するようになった。さらに李朝後期にはパンソリ広大などのように専門化した芸人も生まれる。才人は才人庁に属した官属の芸人で,地方郡衙に属し,中央や地方での饗宴や両班の個人的な祝宴,科挙の合格祝(遊街とよばれ,3日にわたり友人や親戚を訪問するもの)などにも動員された。

李朝では排仏崇儒の政策をとって八関会や燃灯会などの仏教的な行事は継承しなかったが,山台雑劇や追儺は継承し,ことに追儺は前半の逐疾行事よりも後半の雑戯部が拡大された。儺礼都監あるいは山台都監をおいて追儺や山台劇を管掌し,中国使臣の迎接時や各種の宮中行事および地方官衙の宴楽などにも広範に催された。名称も山台雑戯,山台儺礼,儺戯などと混用されたが,内容は高麗時代のものとあまり違わず,1488年に来朝した明の使臣董越の《朝鮮賦》や,朝鮮の成俔(1439-1504)の《観儺詩》などからうかがうことができる。李朝前期は国家新興の気運にあふれ,山台戯もその規模を拡大したが,壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役,1592-98)と丙子の乱(1636)の両乱によって打撃をうけ,仁祖時代(1623-49)以降は公的な行事としては漸次停止されていった。演戯者たちは民間のパトロンを求めて地方に定着し,現在の各地の山台都監系の仮面劇や人形劇などの民俗劇が形成されていった。

 仮面劇はタルチュム(仮面踊)とよばれるように,踊りが主になる歌舞的部分とストーリーの展開やセリフをもった演劇的部分からなる。野外で行い,舞台装置や照明などによる場面の転換はない。セリフや動作による合図で場面の転換は行われ,劇の内容は日常生活の批判的再構成による尖鋭化された表現をとる。共通のテーマは破戒僧に対する風刺や両班貴族に対する嘲弄,一夫妻妾間の葛藤など庶民生活の実相をみせるものである。李朝時代の身分特権や形骸化した道徳,あるいは貴族の観念的虚偽や男性本位の横暴に対する抵抗・批判を具体的に演出した民衆演劇であるといえる。おもに正月や釈迦の誕生日(旧4月8日),端午の節供などに年中行事として上演された。これらの仮面劇に使われる仮面はパガジ(匏)が一番多く,木製と紙製がこれにつぐ。色は黒,白,紅,青(緑),藍の5色の原色が基本になり,左右非対称のデフォルメされた形態とあいまって強い印象を与える。仮面劇が終わると不浄をきらって,使用した仮面をかがり火に投じて焼きすて,行事のつど新しく作り直した。

 仮面劇の大部分が農民ら非職業的な演技者によって継承されたのに対して,コクトカクシなどとよばれる人形劇は,ナムサダン(男寺党)とよばれる職業的な放浪芸人集団によって伝承されてきた。人形劇の主題はおおむね仮面劇と共通するが,場面を8幕に分け,人間を食うウワバミや小便をする丸裸の男性の人形が登場するなど,いっそう自由奔放である。伴奏者と人形操縦者が唱とセリフのかけあいをやるなど,素朴な形を保っている。

 一方,李朝後期には独演形態の一ジャンルとしてのパンソリの発展をあげることができる。17世紀末から18世紀にかけての名演唱者たちの名や12曲のレパートリーなども知られている。19世紀後半には申在孝によって6曲の台本が整理され,そのうち〈春香歌〉〈沈清歌〉〈兎鼈歌〉〈興夫歌〉〈赤壁歌〉の5曲が伝承されている。20世紀に入ると,パンソリは複数の演者による分唱と配役が試みられ,朝鮮声楽研究会(1931創立)にいたって〈唱劇〉として確立し,〈旧劇〉〈国劇〉とよばれた。

朝鮮最初の近代的な屋内常設劇場は,1902年12月設立の協律社であり,倡優,妓生(キーセン),舞童などが各種演劇を上演した。08年7月には円覚社劇場とかわり,最初の新演劇《銀世界》(李人稙の作品)を上演した。これは政治小説を舞台に移した,いわば壮士芝居であった。以後1900年代の10年間は新派劇に終始し,林聖九(1887-1921)の革新団をはじめ,尹白南(1888-1954)と趙一斉(1863-1944)が中心の文秀星劇団,李基世(1889-1945)の唯一団,尹白南,李範亀,李基世の芸星座などが代表的な新派劇団であった。政治劇から始まり軍事劇,探偵劇を経て家庭悲劇や花柳界の悲恋劇を扱うにいたって観客の人気を博した過程は,日本の新派劇の展開と軌を一にするものであった。

 近代演劇の本格的な胎動は,1921年の東京留学生による同友会巡回演劇団の母国訪問公演に始まる。23年7月には同じく東京留学生による土月会公演があり,以後朴勝喜によってリードされた土月会の公演によって新派劇団は中央より押し出され,〈改良新派〉を標榜して主に地方巡演によって余命を保った。1920年代の演劇界は,商業劇団と土月会の流れをくむ新劇団体,そして左翼劇団体の3グループに分かれた。1931年7月には劇芸術研究会が創立された。32年5月にゴーゴリの《検察官》を初演し,以後39年5月まで翻訳劇と創作劇を公演し,1930年代の本格的な〈新劇〉は柳致真(1905-?)らの劇芸術研究会によって主導された。一方,35年11月に開場した東洋劇場は,商業劇の牙城として青春座,豪華船などの専属劇団をもち,いわゆる〈高等新派〉を標榜して40年代の末期まで大小劇団による商業演劇の全盛期をリードした。42年7月には朝鮮総督府が朝鮮演劇文化協会なる統制機関を発足させ,〈国民演劇〉樹立という名目のもとに演劇競演大会を開催し,移動劇団を巡回させて戦争完遂に協力させる暗黒期が始まった。

45年8月,朝鮮民族は解放を迎え,左右両翼の演劇団体による軋轢(あつれき)の時代を経て,大韓民国建国後の50年4月,国立劇場の開場公演として上演された柳致真作《元述郎》と翻訳劇《雷雨》の上演は,未曾有の大盛況を呈した。2ヵ月で6万余名の動員を記録したが,同年6月の朝鮮戦争によってすべては灰燼(かいじん)に帰した。休戦後,50年代の再建期,60~70年代の中興期を経て,1980年現在の韓国演劇界は,国立劇場を始め,16ヵ所の公演場と37の新劇団体をもつにいたった。大韓民国演劇祭や東亜日報演劇賞,韓国日報社の演劇・映画賞などが設けられ,演劇公演が奨励されている。一方,仮面劇やパンソリ等,伝統的な民衆芸能の現代的な見直しが行われ,また近年若い人々のあいだでは小規模劇場や劇場からはみだした野外劇などへの関心も高まっている。
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ソウルを中心に韓国で左右両派に分裂した演劇人たちの左派の一部は,その後,朝鮮民主主義人民共和国へ移って演劇活動に参加した。当時,共和国では,各地に自然発生的につくられた自立的劇団によって演劇は支えられていたが,1948年末には,国立劇団など専門家による劇団が9,移動演芸隊が9,このほかに工場や農村,学校などに多くの演劇同好会がつくられるようになった。共和国の演劇は,革命的世界観と共産主義思想,今日ではとりわけチュチェ(主体)思想によって民衆を武装させるためのもっとも有効な手段の一つとして重要視されている。そのため金日成主席の文芸理論を指針とし,社会主義リアリズムを唯一の正当な創作方法として取り入れ,思想性と芸術性の有機的結合が図られてきた。演劇のテーマは文学の場合と同様に,共和国の歴史の各段階における主要な政治的課題と密接に結びついた,抗日武装闘争時代の革命家たちの不屈の闘い,朝鮮戦争期と社会主義建設期における英雄的人間像,祖国統一のための闘いなどが中心をなしてきたが,1960年代後半からは金日成主席をはじめその祖父母の代にまでさかのぼり,この一家に深い崇敬の念を寄せた演劇がひんぱんに上演されている。

 共和国の演劇は1971年に〈歌劇芸術〉と呼ばれるものを派生させた。〈血の海式歌劇〉とも革命歌劇とも呼ばれるこれは,金日成主席の抗日パルチザンによって上演されたという演劇《血の海》を歌劇化したものであるが,登場人物のせりふは節歌(アリアにあたる)によって表現され,登場人物の内面描写や状況描写は合唱団などによる傍唱によって行われる。また舞踊に重要な役割を担わせ,伝統的な楽器を主体とするシンフォニーによって演奏される,民族的形式のオペラということができる。日本では73年に,この形式を採り入れた《花を売る乙女》が,来日した万寿台(マンスデ)芸術団によって上演されたことがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝鮮演劇」の意味・わかりやすい解説

朝鮮演劇
ちょうせんえんげき

朝鮮の演劇は伝統演劇(古典劇)と現代演劇とに大別され、伝統演劇は宮廷と民間の二つに分けられる。現代演劇は新劇、軽演劇、歌舞劇など多岐にわたっている。

[金 両 基]

三韓時代から新羅まで

朝鮮の伝統演劇はとりわけ歌舞の要素が強く、朝鮮の音楽や舞踊の歴史と重なり合う。紀元前の三韓(さんかん)時代には、馬韓(ばかん)の天君(チヨングン)、濊(わい)の舞天(ムチヨン)、夫余(ふよ)の迎鼓(ヨンゴ)など、歌舞飲酒して天を祭る祭天儀式が行われ、弁韓(べんかん)や辰韓(しんかん)でも同種の儀式が行われた。これらは五穀豊饒(ほうじょう)の予祝や祈願のシャーマニズム神事であった。内容は、駕洛(からく)国(大伽倻(かや))の始祖が亀旨峰に天下る神話などで、天神と人間が神歌の「亀旨歌(クイジガ)」を歌い交わすというような、原初的演劇形態がうかがえる。

 高句麗(こうくり)(前37ころ~後668)の初期の古墳壁画(中国吉林(きつりん)省集安の舞踊塚、安岳(あんがく)古墳、八清里古墳)に、群舞、奏楽、仮面舞などが描かれており、形の整った芸態がうかがえる。百済(くだら)(?~660)には伎楽(ぎがく)や弄珠之戯(ろうちゅのぎ)、無等山(ムドウンサン)、井邑(ジヨンウブ)などの歌舞があったが、現在は井邑の音楽だけが伝わる。百済の僧味摩之(みまし)が呉(くれ)の伎楽を日本に伝えたことは『日本書紀』に記されているが、今日の山台劇(さんだいげき)(サンデノリ)がその伎楽の遺風だとする説がある。

 古新羅(しんら)(前57~後668)の土偶に歌舞奏楽の像があり、土器にもその類(たぐい)の絵柄がある。そのころ民族楽系の郷楽(ヒァンアク)と外来楽が流行し、統一新羅(668~935)の礎(いしずえ)となった忠君愛国の青少年戦士の組織であった花郎(かろう)(ファラン)たちは、武とともに文・芸をも学んだ。その花郎道は統一国家を樹立し遂げたあと、急速に風流に傾斜し、芸道の道に走った。俗に、芸人を花郎とよぶように、花郎道の芸能に与えた影響は大きい。統一新羅では、戦死した花郎の黄倡(フアンチヤン)(官倡(クワンチヤン)ともいう)の追悼舞である剣舞(クウオムム)、元暁(げんぎょう)大師が仏教の布教のために舞った無舞(ムエム)、婦女たちが麻紡ぎを競い合って負け組が歌舞飲酒でもてなした8月15日の嘉俳(カウイ)など多彩な芸能が栄えた。さらに、東海の竜王の王子にちなむ処容舞(チヨヨンム)、慶州の南山の山神が王の御前で舞ったという霜髯舞(サンヨオムム)(山神舞)などの僻邪進慶(へきじゃしんけい)の仮面舞があり、巷間(こうかん)では大陸からの散楽(さんがく)や伎楽が演じられていた。また、西域(せいいき)系の伎楽とされる五伎があるが、五伎とは金丸(クムフアン)(弄丸(ろうがん))、月顛(ウオルジヨン)、大面(テミヨン)(仮面)、束毒(ソクトク)、狻猊(サネ)(獅子(しし)舞)のことをいう。

[金 両 基]

高麗時代

高麗(こうらい)(918~1392)は仏教を国教とし、春には燃灯会(ヨンドンフエ)を開いて仏を、冬には八関会(パルクワンフエ)を開いて土俗神を供養する祭祀(さいし)を行った。これらは王を中心とした国家的行事で、郷楽と踏沙行(タブサヘン)や王母隊(ワンモデ)歌舞のような唐楽(とうがく)が併演され、そのとき巫堂(ムーダン)による女楽を演奏し、後の官伎(妓生(キーセン))を生んだ。大晦日(おおみそか)の追儺(ついな)行事である儺礼(ナレ)には、処容舞や歌舞百戯が併演された。また、五色に彩られた山台(サンデ)と称する舞台で仮面劇や雑劇が演じられ、そこから山台劇が始まったとされる。巷間では、広大(クワンデ)や才人(ジエイン)と称する職業芸人が動動(ドンドン)や舞鼓(ムコ)など、多くの見せ物芸を演じていた。また、大陸からの漂泊民を主とする楊水尺(ヤンスチョク)(禾尺(フワチヨク)や水尺(スチヨク)、白丁(ペクチヨン)ともいう)の男たちは畜殺や柳細工に長(た)け、女は芸や春を売った。彼らが日本に渡って傀儡(くぐつ)になったと考えられる。

[金 両 基]

李朝時代

李朝(りちょう)(1392~1910)になると、これらの漂泊民はサダン(寺党・社党)牌(ペ)という集団を組織して全国を巡演し、放浪芸を広めた。彼らのレパートリーはコクトゥ閣氏(カクシ)ノルム(朴僉知劇(パクチヨムジノルム)ともいう)という人形劇を中心に、トッペギ(仮面劇)、農楽(のうがく)(ノンアク)の風物(プンムル)、チゥルタリギ(綱引)、皿回しなど多彩であった。今日の男寺党(ナムサダン)はその流れをくんでいる。当時、全羅道を発祥地とする口承芸能のパンソリの人気が高く、広大(芸人)によって演唱されていた。それを19世紀後半に申在孝が演劇的に整理再編した。また、19世紀末葉には中国の京劇の影響を受けて、パンソリは唱劇(しょうげき)(チャンクク)という民族演劇を形成した。唱劇は一人全役のパンソリから発展した一人一役形態の歌劇で、現在韓国(大韓民国)では国立国劇団が継承、育成し、北朝鮮では民族オペラとして上演されている。朝鮮の伝統演劇には悲劇が存在しない。劇中では悲劇を多用するが結末はハッピーエンドで、喜劇になってしまう。それは大きな特徴といってよい。

[金 両 基]

新しい演劇

1902年、朝鮮最初の劇場である国立劇場の協律社(ヒヨブユルサ)が創建され、同年末『笑春臺遊戯(ソチウンデユフイ)』を上演した。協律社では唱劇、パンソリ、妓生舞踊などが多く上演されたが、08年には運営が民間にゆだねられ、李人稙(りじんちょく)の『銀世界(ウンセゲ)』が上演された。これは日本の壮士芝居の影響を受けた新派調の芝居であり、しばらくはそのような芝居が続いた。土月会(トウオルフエ)は東京の留学生が組織した劇団で、22年の母国訪問公演が朝鮮の本格的な新劇の産声となった。リーダー役の朴勝喜(ぼくしょうき)の『吉植(キルシク)』、チェーホフの『熊』の上演は興行的に失敗したが、翌年トルストイの『復活』が大成功を収めた。

 1923年、宋影(そうえい)を中心とする焔群社(ヨオムグンサ)が生まれ、「無産階級解放文化の研究と運動」をスローガンに掲げた左翼演劇運動が始動、25年「朝鮮プロレタリア芸術同盟」(カップ)へと発展、30年代にはソウルに「新建設」、東京に「三・一劇場」「朝鮮芸術座」が結成されてその傘下に入る。土月会はのちに商業演劇派と純粋派とに分かれ、それに左翼演劇が加わって演劇界は三つの傾向に分かれた。なお、多くの朝鮮の演劇人は、日本の国民演劇への参加を強要されながらも、それを拒んだ。

 1945年8月15日の解放を迎え、その年プロレタリア演劇同盟がソウルで結成された。47年、咸世徳(かんせいとく)の『太白(たいはく)山脈』と趙霊出(ちょうれいしゅつ)の『偉大なる愛をもって』の2作を各劇団の合同公演としてソウルで上演し、16日間で16万人という記録的動員を達成した。同年、戦前からの自然主義リアリズムの旗手であった柳致真(りゅうちしん)が長い沈黙を破って『自鳴鼓(ジアミヨオンゴ)』をはじめ意欲的に新作を発表し上演する。彼は李瑞求(りずいきゅう)と「全国演劇芸術協会」を創立し、のちに「全国文化団体聯合(れんごう)会」へと発展、ここに前者の左翼演劇と後者の純粋演劇の左右二大演劇の葛藤(かっとう)が始まった。そして48年には南に韓国が、北に北朝鮮が樹立され、53年の朝鮮戦争休戦後は、南と北とでそれぞれに演劇運動が展開されていく。

[金 両 基]

北朝鮮

北朝鮮では国立劇場や道立劇場を中心に、社会主義国家的次元の演劇運動を展開している。1950年代の後半は劇作家の宋影、人民俳優の黄澈(こうてつ)などを中心に『狼(おおかみ)』『両班(ヤンバン)伝』などの社会主義リアリズム演劇を創造した。70年前後から金日成主席のチュチェ(主体)思想に基づき、『花を売る乙女』『城隍堂(ソナンダン)』『血の海』など、抗日パルチザンの伝統を再創造した「血の海方式」が生まれ、現在これら大規模な革命歌劇の全盛期にある。

[金 両 基]

韓国

韓国の創作戯曲は自然主義リアリズムを追求するものが多く、自由主義陣営の作品に限られ、左翼演劇と日本の作品は上演されていない。1950年代の再建期を経て、60年から70年の中興期に若い演劇人が育ち、車凡錫(しゃぼんしゃく)の『山火事』が発表され話題になった。73年には近代設備を整えた国立劇場が新開場し、民族演劇の創造を課題として幅広い活動を始めた。80年代には若い演劇人による小劇場運動と、伝統的上演形態を取り入れたマダン(広場、庭)劇運動が急速に高まり、唱劇の古典の復活と再創造などの実験的試みも盛んである。その間、韓国(大韓民国)演劇祭、東亜日報演劇賞、韓国日報演劇映画賞などの支援に支えられて国立劇団ほか30余の専門劇団が活動している。

[金 両 基]

『韓暁著『朝鮮演劇史概要』(1956・平壌・国立出版社)』『杜鉉著『韓国演劇史』(1973・ソウル・民衆図書館)』『金両基著『朝鮮の芸能』(1976・岩崎美術社)』『金両基著『韓国仮面劇の世界』(1987・新人物往来社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝鮮演劇」の意味・わかりやすい解説

朝鮮演劇
ちょうせんえんげき

祭政一致の公の儀礼あるいは村落の民俗祭礼をその起源とする古典演劇 (仮面劇,人形劇,パンソリ) と,20世紀初頭以降の近代演劇 (唱劇,新派,新劇など) とに大別される。古典演劇の演者や広大 (俳優) は,司祭的役割をつとめた巫堂 (巫女,巫覡〈ふげき〉) から転じたもの。高麗時代の仏教や李朝の儒教の影響を受けた,優雅で歌舞的要素の強い演劇は支配階級に愛好され,一方,流浪する広大によって演じられた,劇的要素が強く素朴で滑稽,風刺的な演劇は,民衆に支持されてきたといえる。また新羅時代の駆除儀式から生れて,高麗,李朝後半までに完成された山台都監劇 (さんだいとかんげき) があるが,公儀が廃止されたために山台都監劇から派生した仮面劇や人形劇が各地に流布,伝承されてきた。仮面劇と異なり,人形劇は職業芸人であるナムサダン (男寺党) によって継承されている。その起源は巫女,巫覡が用いた木偶人形に始り,高句麗時代に中国系の傀儡戯の影響を受けて現在にいたる。人形は一人遣いが主で,内容は仮面劇と同一。パンソリは,17世紀末から 18世紀初めにかけて形成された独演による語り物である。 20世紀に入ると,この独演のパンソリをいくつかの役に分けて各俳優が演じる唱劇 (旧劇) ,日本の新派の影響を受けた新派劇,西欧の現代劇を輸入した新劇などが上演されるようになった。第2次世界大戦後,韓国では,1970年代の民主化運動の高まりとともに伝統的な仮面劇が見直されマダン劇として発展。 80年代以降はその思想を受継いだ小劇場運動が盛んである。一方北朝鮮では,「歌劇芸術」「革命歌劇」と呼ばれる朝鮮舞踊・歌謡を用いたオペラが生れている。

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