釈迦入滅後における仏教流布の期間を3区分した正像末の三時の考え方に立脚し,末法時に入ると仏教が衰えるとする予言的思想のことであり,仏教の漸衰滅亡を警告する歴史観である。正法時と像法時については,インド仏教で早くから考えられていたが,末法の思想は6世紀ころに西北インドで成立してただちに中国にもたらされたらしく,やがて日本にも伝えられた。
仏の教法〈教〉のみがあって,教法に従って修行する者〈行〉も,修行の果報を得る者〈証〉もなく,国土も人心も荒廃する末法時が1万年つづいて法滅尽を迎えるとする点では異説がない。しかし正法時と像法時については,経論によって異なり,なかでも正法500年,像法1000年説と,正法,像法ともに1000年説が有力であった。中国仏教徒の伝承に基づくと,釈迦の入滅は周の穆王(ぼくおう)の52年(前949)なので,末法の世に入るのは,第1説では西暦552年,第2説では1052年ということになる。中国では主として第1説に従って北斉の文宣帝の天保3年(552)に末世に入ったと考えられたが,この年こそ仏教が日本に初めて伝わったとされる年なので,日本では第2説による計算が採用されて,1052年から末法の世になると信ぜられ,末法仏教運動が展開されるにいたる。
中国における末法思想の流行に関して,最も有力な経典となったのは,ナレンダイヤシア(那連提耶舎)が北斉の首都の鄴(ぎよう)で566年(天統2)に漢訳した《大集月蔵経》であった。エフタルのミヒラクラ王による猛烈な仏教迫害をこうむった西北インドの地から,556年(天保7)にはるばると鄴に到着したナレンダイヤシアは,世はすでに末法時代に入って久しいことを説いた。また558年には,正像末の3時期区分つまり末法思想を,中国人として初めて明確に表明した南岳慧思の《立誓願文》が執筆された。このように中国で末法思想が展開しはじめたばかりの時期の574年(建徳3)に,北周の武帝は三武一宗の法難の第2回目とされる仏教への大弾圧を行い,経像を破壊し僧侶を還俗させ,翌年には北斉攻撃の軍をおこして,577年に滅ぼし,ただちに旧北斉領に廃仏を断行したのである。
仏教復興政策のとられた隋代になると,北周の武帝による亡国と廃仏を同時に体験した旧北斉領内の仏教徒たちを中心にして,末法仏教運動が急速に展開する。この濁悪末世の時代にふさわしい教法として提唱されたのが,太行山脈の東側の河北省の地におこった信行の三階教と,太行山脈の西側の山西省におこった道綽(どうしやく)の浄土教であった。信行や道綽は,《大集月蔵経》の説く末法時を現今と読みとることによって,末法仏教つまり今の我々を救う仏教を提唱した。このうち道綽の浄土教は,唐初の善導によって整理され深化され,日本の法然,親鸞へと受け継がれるのである。
北周の武帝による残酷な廃仏によって法滅の惨禍を目前にみた仏教徒は,末法の到来を現実感をもって意識し,仏典を石に刻し,教法を永遠に伝えようとする護法の刻経事業をもおこした。北斉仏教界の指導者であった霊裕(518-605)は,589年(隋の開皇9)から河南省の宝山に石窟を造営して《大集月蔵経》などの石経を刻し,静琬(じようおん)(?-639)は隋の大業年間(605-617)に発願して,煬帝(ようだい)の皇后蕭氏と弟の蕭瑀(しようう)らの援助をうけつつ,北京南西郊の房山(ぼうざん)に《大蔵経》全部を碑石に刻さんとした。特に房山の刻経事業は,唐,遼,金代をへて明末にまで継承され,石室の壁面はいうに及ばず,碑石に刻された経版は地下の洞穴内などに秘蔵されてきたのである。1978年に出版された大型図版《房山雲居寺石経(ぼうざんうんごじせつけい)》によると,幅80cm,高さ160cmに及ぶような経石がすでに1万4000余も出土していて,本書は末法思想に触発された隋・唐の仏教徒の悲愴なる護法運動の力量の強大さを再現してくれる。
執筆者:礪波 護
日本では平安中期に入ると,上述にあるように正法・像法各1000年説が有力になり,釈迦入滅の年次についても周の穆王52年の説が一般化した。三時の観念は,聖徳太子《維摩経義疏(ゆいまきようぎしよ)》や法相宗の善珠《中観論疏記》,景戒《日本霊異記》の序文にもみえる。しかし末法到来への危機を切実に訴えたのは天台宗最澄の《守護国界章》で,〈正像稍々過ぎおわって末法太(はなは)だ近きに有り。法華一乗の機,今正しく是れ其時なり〉と獅子吼(ししく)し,源為憲の《三宝絵詞》にも,984年(永観2)の時点で〈像法の世に有らむ事,遺(のこ)る年幾(いくば)くもあらず〉と末法への不安感を表している。1052年(永承7)に末法に入ったという危機感は,藤原資房の《春記》に大和長谷寺の焼亡をあげて,〈末法の最年,此事有る,恐るべし〉と記し,《扶桑略記》にも永承7年をもって〈今年始めて末法に入る〉としている。藤原頼通が平等院を仏寺として,阿弥陀信仰に入ろうとしたのもこの年であり,知識層には前年の冬からの疫病流行とあいまって,現実感をともなって感取された。
末法のときには天変地災が生起し,破戒虚言・闘争戦乱が相次ぐという仏典の所説に類似した社会現象が11世紀の前半より派生し,末法への自覚は普及していった。無常観や厭世観が広くゆきわたり,往生浄土の欣求(ごんぐ)を願う浄土教の興隆は末法思想と深い関係がある。鎌倉時代には末法の世に相応する救済の仏教として,法然や親鸞などの新仏教が生まれ,南都では釈尊に還(かえ)れとの反省から弥勒如来の下生を願う弥勒信仰が,貞慶などによって提起された。末法思想は仏教界や貴族の信仰だけでなく,文学作品にも多大の影響を与えたが,このことは末法の自覚の深化を示すといえる。
執筆者:堀池 春峰
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釈迦(しゃか)入滅後、その教法(きょうぼう)を実行し証(さと)りうるものが時の経過とともに少なくなり、仏法が衰滅するという思想である。当初、インド方面で、真実正法(しょうぼう)1000年(500年)存在説(『雑阿含(ぞうあごん)』25、『五分律(ごぶんりつ)』29、パーリ『増支部経典(ぞうしぶきょうてん)』5の第8集の「六瞿曇弥品(くどんやほん)」、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』183など)が出され、のち、比丘(びく)の堕落、諸国王の仏教破壊などにより、正法は500年(1000年)で滅し、相似(そうじ)の似而非(えせ)の仏法たる像法(ぞうぼう)が1000年または500年行われるにとどまるとの説が出されてくる(『雑阿含』32、『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』2・89、『大集経賢護分(だいじゅうきょうけんごぶん)』、『大集経(だいじゅうきょう)』56、『悲華経(ひけきょう)』7、『摩訶摩耶経(まかまやきょう)』下、『大乗三聚懺悔経(だいじょうさんじゅさんげきょう)』など)。龍樹(りゅうじゅ)(200年ごろ)の『中論(ちゅうろん)』の最初や『智度論(ちどろん)』44、63、88など、部派仏教者を、仏滅後500年の像似(ぞうじ)の贋(にせ)仏教者と貶(へん)称する。このような正法・像法仏教衰滅思想を受けて、中国で、大成されるのが末法法滅(まっぽうほうめつ)思想である。このように、当初は、正法・像法法滅思想にとどまるが、南北朝末より隋(ずい)、唐初に至るや、正像末三時の思想が表れてくる。天台の慧思(えし)(515―577)は『立誓願文(りっせいがんもん)』に正法500年、像法1000年、末法(まっぽう)1万年説を出し、信行(しんぎょう)(540―594)は末法時の三階(さんがい)仏教の実践を提唱し、道綽(どうしゃく)(562―645)は『安楽集(あんらくしゅう)』に末法五濁悪世(ごじょくあくせ)時の浄土念仏(じょうどねんぶつ)を主唱し、南山律(なんざんりつ)の道宣(どうせん)(596―667)は『四分律行事鈔(しぶんりつぎょうじしょう)』『続高僧伝(ぞくこうそうでん)』などに像末時の戒律復興を説いている。また、法相(ほっそう)の窺基(きき)(632―682)は『大乗法苑義林章(だいじょうほうおんぎりんじょう)』などに、正法時には「教(きょう)・行(ぎょう)・証(しょう)」の三つが整っているも、像法時は「教(きょう)・行(ぎょう)」のみで、末法時には「教(きょう)」のみとなるゆえ、仏道に専精(せんしょう)するようにと説くに至る。三論(さんろん)の吉蔵(きちぞう)(549―623)の『三論玄義(さんろんげんぎ)』『十二門論疏(じゅうにもんろんそ)』などにも、正法500年・像法1000年(500年)・末法1万年説を示すが、慧思、信行、道綽、道宣などが、仏教像季(ぞうき)(像法時の末)末法衰滅史観に直接たち、実践的に仏法興隆を強く叫ぶ。とくに、信行は一仏一教によらない普真普正(ふしんふしょう)(あらゆる真・正なるもの)の三階仏法・普法(ふほう)の激しい実践修行を説き、道綽は浄土念仏易行道(いぎょうどう)の実践を主張し、後の仏教界へ多く影響した。
日本においても、以上の動向を受け、日本天台の祖最澄(さいちょう)の『正像末文(しょうぞうまつもん)』やその著とされる『末法燈明記(まっぽうとうみょうき)』などの末法思想の高揚がある。とくに、『末法燈明記』の周(しゅう)の穆王(ぼくおう)53年壬申(じんしん)仏入滅(前949)とする正五・像千・末万説は、後の皇円(こうえん)の『扶桑略記(ふそうりゃくき)』29などに示す正千・像千・末万説とともに、平安朝中末期より鎌倉期の仏教界に、多大の影響を与える。円珍(えんちん)の『授菩薩戒儀記(じゅぼさつかいぎき)』、源信(げんしん)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』、永観(えいかん)の『往生拾因(おうじょうじゅういん)』などより、とくに、鎌倉仏教者法然(ほうねん)(源空)の『選択集(せんじゃくしゅう)』、栄西(えいさい)の『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』、貞慶(じょうけい)の『愚迷発心集(ぐめいほっしんしゅう)』、高弁(こうべん)の『華厳仏光観法門(けごんぶっこうかんぼうもん)』、親鸞(しんらん)の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』、道元(どうげん)の『永平広録(えいへいこうろく)』、日蓮(にちれん)の『顕仏未来記(けんぶつみらいき)』などに至るや、末法仏教衰滅思想痛感のなかに、正像末三時超越の絶対永遠不滅仏教の実践を主張する。
[石田充之]
『石田充之著『講座仏教思想 一 末法思想』(1974・理想社)』
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釈迦の入滅後,仏教は釈迦在世時と同様に釈迦の教え(教),正しい実践(行),実践の結果としての悟り(証)の三つがそろった正法(しょうぼう)をへて,証を欠いた像法(ぞうほう)の時代,行と証を欠いた末法の時代へと衰退していくという思想。三時の長さは典拠によりさまざまで,釈迦入滅年も2説あるが,釈迦入滅を前949年,正・像各1000年として1052年(永承7)を入末法年とする説が広く信じられた。中国では僧団内の危機意識にすぎなかったが,日本では阿弥陀仏や弥勒菩薩の浄土信仰とあいまって社会的な広がりをもってさまざまに展開し,法然・親鸞・日蓮ら多くの僧侶が末法下の救済を模索して活発な宗教活動をくり広げた。
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