本因坊算砂(読み)ホンインボウサンサ

デジタル大辞泉 「本因坊算砂」の意味・読み・例文・類語

ほんいんぼう‐さんさ〔ホンインバウ‐〕【本因坊算砂】

[1558~1623]安土桃山・江戸初期の僧・囲碁棋士。京都の人。本因坊家の始祖。本姓、加納。幼名、与三郎。日海と称し、寂光寺塔頭たっちゅう本因坊に住んだ。若年から碁・将棋の達人で、織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えた。最初の名人碁所ごどころ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本因坊算砂」の意味・わかりやすい解説

本因坊算砂
ほんいんぼうさんさ

[生]永禄2(1559).5. 京都
[没]元和9(1623).5.16. 江戸
囲碁名人。旧姓加納。おじの寂光寺開祖日淵について仏門に入るかたわら堺の仙也に碁を学んだ。天正 10 (1582) 年6月本能寺の変前夜に鹿塩利賢 (のちの好敵手利玄坊とは別人) の紹介で織田信長に召し出され,鹿塩との対局で三コウを生じたと伝えられる (→コウ ) 。翌年豊臣秀吉に召し出されて寵愛を受け,同 16年,だれにも黒をもたない資格 (ただし師匠仙也は例外として互先〈たがいせん〉) と碁方 (碁打衆) の法度を申しつける朱印ならびに 20石 20人扶持の禄を与えられた。後世これを碁所の開始としたのは拡大解釈にすぎない。徳川家康にも厚遇を受け,慶長8 (1603) 年2月江戸開府に際し伴われて出府した。算砂は碁とともに将棋をよくし,初めは碁将棋衆の総取締りの立場にあった。知友の大橋宗桂を家康に紹介し,将棋衆取締りの地位を譲った。算砂の禄は家康の天下統一後,別に 300石が加えられ 350石 20人扶持となった。江戸で没し,寂光寺に葬られた。この当時,本因坊は家元でもなく算砂1代限りであったが,寛永7 (30) 年算砂の高弟で名人の資格を譲られた中村道碩幕府に願い出て算悦を2代目本因坊とした。

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改訂新版 世界大百科事典 「本因坊算砂」の意味・わかりやすい解説

本因坊算砂 (ほんいんぼうさんさ)
生没年:1558-1623(永禄1-元和9)

安土桃山~江戸初期の囲碁名人。1世本因坊。京都寂光寺の開祖日淵の甥にあたる。本姓加納,幼名与三郎。出家して日海と称し,寂光寺の塔頭(たつちゆう)〈本因坊〉に住んだ。日淵から碁の修業の自由を与えられて堺の仙也に碁を学び,将棋も強かったので,碁・将棋の名手として盛名をはせた。織田信長,豊臣秀吉,徳川家康の3代につかえて禄を受け,1603年(慶長8)みずからが住んだ本因坊の名をとって本因坊算砂と改名した。〈算砂出でて元和寛永の碁あり〉といわれ,近世の碁の基礎を打ちたてた。彼の時代はまだ家元制も段位制もととのっていなかったが,後世になって初めからととのっていたごとく誤伝されるほど算砂の存在は大きかった。幕府の碁・将棋奨励策の一環として碁所に任ぜられ,以後300年にわたって名人・上手を輩出した本因坊家の始祖となった。江戸日本橋に邸を与えられたが不便なため返上し,芝金杉に仮屋敷を賜り,そこで没した。
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百科事典マイペディア 「本因坊算砂」の意味・わかりやすい解説

本因坊算砂【ほんいんぼうさんさ】

囲碁家元本因坊家の祖。初世本因坊(1612年―1623年)。本姓加納。出家して日海と称し,京都寂光寺の塔頭(たっちゅう)〈本因坊〉に住んだ。学名が高かったが,碁,将棋にもすぐれ,織田信長の寵を得た。のち豊臣秀吉,徳川家康に仕え,初代名人,碁所として活躍し,近世の碁の基礎をつくった。
→関連項目

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本因坊算砂」の解説

本因坊算砂
ほんいんぼうさんさ

1559~1623.5.16

江戸初期の碁打で日蓮宗の僧。京都生れ。本因坊家の初世で,「言経卿記(ときつねきょうき)」文禄3年(1594)条の記事に徳川家康の上洛に際し宴席に接待要員として召し出されたとある。公家や武家との交際も多く寺社にも招かれ,職業的な碁打の先駆。1603年(慶長8)利玄坊(りげんぼう)・仙角(せんかく)・道碩(どうせき)らとともに禁裏で技を披露した。12年幕府から50石5人扶持を支給される。将棋にも堪能で,大橋宗桂(そうけい)と駿府城や伏見城で対局している。「言緒(ときお)卿記」元和元年(1615)条に後陽成上皇御所にたびたび招かれ側近らと碁を打ったとみえる。

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朝日日本歴史人物事典 「本因坊算砂」の解説

本因坊算砂

没年:元和9.5.16(1623.6.13)
生年:永禄2.5(1559)
安土桃山・江戸初期の囲碁棋士,初代本因坊。囲碁中興の祖といわれる。京都生まれ,幼名加納与三郎。京都寂光寺の日蓮宗僧侶となり法名を本行院日海。同寺塔頭の本因坊に起居し後年それを本姓とした。囲碁,将棋の技量にすぐれ織田信長,豊臣秀吉,徳川家康の3代から厚遇を受けた。信長に「名人」とたたえられたのが名人の呼称の始まりという。慶長8(1603)年算砂と改名,家康から碁所・将棋所に任ぜられた。将棋所は同17年,初代大橋宗桂に譲る。同12年の算砂と宗桂の将棋対局は日本最古の将棋棋譜とされる。<参考文献>岩本薫『算砂・道碩』(日本囲碁大系)

(谷口牧夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本因坊算砂」の解説

本因坊算砂 ほんいんぼう-さんさ

1558-1623 織豊-江戸時代前期の囲碁棋士。
永禄(えいろく)元年5月生まれ。本因坊初世。日海と称し,京都寂光寺の塔頭(たっちゅう)本因坊にすんだ。碁・将棋の名手で織田信長,豊臣秀吉,徳川家康につかえ,信長から名人と称されたのが名人の呼称のはじまりという。慶長8年本因坊算砂と改名,家康から碁所・将棋所に任じられた。元和(げんな)9年5月16日死去。66歳。京都出身。本姓は加納。
【格言など】碁なりせば劫(こう)なと打ちて生くべきに死ぬるばかりは手もなかりけり(辞世)

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世界大百科事典(旧版)内の本因坊算砂の言及

【碁】より

…碁の水準もかなりのものだったらしく,明代の弘治年間(1488‐1505)に中国に渡った日本の留学僧虚中の著をもとに棋書《適情録》20巻が本家の中国で出版された事実がある(1524)。しかしなんといっても日本の碁を今日あらしめたのは本因坊算砂の出現であった。算砂は京都寂光寺の塔頭〈本因坊〉に住み,碁技をもって織田信長,豊臣秀吉,徳川家康の3代に仕え,とくに家康の庇護のもとに,江戸期における碁の黄金時代の基礎を固めた。…

【寂光寺】より

…そののち,寺地は洛中を転々し,江戸中期から現在地に移った。当寺が世に注目されるのは囲碁の名人,本因坊1世の算砂(さんさ)日海(本因坊算砂)が出たからである。本因坊は当寺の塔頭の一つ。…

【将棋】より

…なお,駒数の少ない小将棋がゲームの興味を増すために,相手から取った駒を再使用できるルールを確立したのもこのころのこととみなされる。
[江戸時代の将棋]
 戦国時代の武将であった織田信長,徳川家康,豊臣秀頼らは,当時の将棋の上手(じようず)であった本因坊算砂大橋宗桂らを召し出して指させるなど将棋への関心が高かった。徳川幕府が成立した直後に算砂や宗桂は囲碁,将棋の芸人として召しかかえられて,この部門は碁将棋所(ごしようぎどころ)とよばれた。…

【本因坊】より

…江戸時代,幕府の扶持(ふち)を受けた囲碁家元4家の筆頭。京都寂光(じやつこう)寺の塔頭(たつちゆう)〈本因坊〉の僧算砂(本因坊算砂)を祖とする。4世道策(本因坊道策)は布石理論をひっさげて近代碁の基礎を築き,無敵の5世道知とともに本因坊家の優位を不動のものとした。…

※「本因坊算砂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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