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安土桃山~江戸初期の囲碁名人。1世本因坊。京都寂光寺の開祖日淵の甥にあたる。本姓加納,幼名与三郎。出家して日海と称し,寂光寺の塔頭(たつちゆう)〈本因坊〉に住んだ。日淵から碁の修業の自由を与えられて堺の仙也に碁を学び,将棋も強かったので,碁・将棋の名手として盛名をはせた。織田信長,豊臣秀吉,徳川家康の3代につかえて禄を受け,1603年(慶長8)みずからが住んだ本因坊の名をとって本因坊算砂と改名した。〈算砂出でて元和寛永の碁あり〉といわれ,近世の碁の基礎を打ちたてた。彼の時代はまだ家元制も段位制もととのっていなかったが,後世になって初めからととのっていたごとく誤伝されるほど算砂の存在は大きかった。幕府の碁・将棋奨励策の一環として碁所に任ぜられ,以後300年にわたって名人・上手を輩出した本因坊家の始祖となった。江戸日本橋に邸を与えられたが不便なため返上し,芝金杉に仮屋敷を賜り,そこで没した。
執筆者:林 裕
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1559~1623.5.16
江戸初期の碁打で日蓮宗の僧。京都生れ。本因坊家の初世で,「言経卿記(ときつねきょうき)」文禄3年(1594)条の記事に徳川家康の上洛に際し宴席に接待要員として召し出されたとある。公家や武家との交際も多く寺社にも招かれ,職業的な碁打の先駆。1603年(慶長8)利玄坊(りげんぼう)・仙角(せんかく)・道碩(どうせき)らとともに禁裏で技を披露した。12年幕府から50石5人扶持を支給される。将棋にも堪能で,大橋宗桂(そうけい)と駿府城や伏見城で対局している。「言緒(ときお)卿記」元和元年(1615)条に後陽成上皇御所にたびたび招かれ側近らと碁を打ったとみえる。
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(谷口牧夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…碁の水準もかなりのものだったらしく,明代の弘治年間(1488‐1505)に中国に渡った日本の留学僧虚中の著をもとに棋書《適情録》20巻が本家の中国で出版された事実がある(1524)。しかしなんといっても日本の碁を今日あらしめたのは本因坊算砂の出現であった。算砂は京都寂光寺の塔頭〈本因坊〉に住み,碁技をもって織田信長,豊臣秀吉,徳川家康の3代に仕え,とくに家康の庇護のもとに,江戸期における碁の黄金時代の基礎を固めた。…
…そののち,寺地は洛中を転々し,江戸中期から現在地に移った。当寺が世に注目されるのは囲碁の名人,本因坊1世の算砂(さんさ)日海(本因坊算砂)が出たからである。本因坊は当寺の塔頭の一つ。…
…なお,駒数の少ない小将棋がゲームの興味を増すために,相手から取った駒を再使用できるルールを確立したのもこのころのこととみなされる。
[江戸時代の将棋]
戦国時代の武将であった織田信長,徳川家康,豊臣秀頼らは,当時の将棋の上手(じようず)であった本因坊算砂や大橋宗桂らを召し出して指させるなど将棋への関心が高かった。徳川幕府が成立した直後に算砂や宗桂は囲碁,将棋の芸人として召しかかえられて,この部門は碁将棋所(ごしようぎどころ)とよばれた。…
…江戸時代,幕府の扶持(ふち)を受けた囲碁家元4家の筆頭。京都寂光(じやつこう)寺の塔頭(たつちゆう)〈本因坊〉の僧算砂(本因坊算砂)を祖とする。4世道策(本因坊道策)は布石理論をひっさげて近代碁の基礎を築き,無敵の5世道知とともに本因坊家の優位を不動のものとした。…
※「本因坊算砂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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