足代弘訓(読み)アジロヒロノリ

デジタル大辞泉 「足代弘訓」の意味・読み・例文・類語

あじろ‐ひろのり【足代弘訓】

[1785~1856]江戸後期の歌人・国学者伊勢外宮げくう神官。号は寛居ゆたい晩年尊王を説き、古典類聚るいじゅ編纂へんさんに努めた。歌集に「海士あまさえずり」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「足代弘訓」の意味・読み・例文・類語

あじろ‐ひろのり【足代弘訓】

  1. 江戸後期の国学者、歌人。通称権太夫、号寛居(ゆたい)。伊勢外宮の権禰宜(ごんのねぎ)荒木田久老、本居春庭、本居大平に国学を学び、本居学派の中心的存在として国学の普及につとめ幅広い分野で古典の考証を行なった。天保の飢饉には私財を投じて窮民を救う。主著は「日本紀人名部類」「万葉集類話」「八代集部類」など大部なもの数多く、歌集に「海士の囀(さえずり)」もある。天明四~安政三年(一七八四‐一八五六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足代弘訓」の意味・わかりやすい解説

足代弘訓
あじろひろのり
(1784―1856)

江戸末期の国学者。伊勢外宮(いせげくう)の権禰宜(ごんねぎ)、弘早(ひろとし)の子。17歳で家督を相続。国学を荒木田久老(あらきだひさおゆ)、本居春庭(もとおりはるにわ)、本居大平(おおひら)に学び、上京して和歌を芝山持豊(しばやまもちとよ)(1742―1815)に、有職(ゆうそく)を竹屋光棣(たけやみつとみ)(1781―1837)に学び、江戸、大坂に出て塙保己一(はなわほきいち)、大塩平八郎らと交流した。研究は、国語・国文のほか、神道・国史に及び、考証や古典の類聚(るいじゅう)・部類に業績を残し、『日本紀人名部類』以下の国史人名部類、『万葉集類語』などの歌書部類、『大塩平八郎一件記』、歌集『海人(あま)の囀(さえずり)』など、1230部(2179冊)を著す。門下に佐々木弘綱(ささきひろつな)(1828―1891)がいる。

[上野 理 2016年4月18日]

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朝日日本歴史人物事典 「足代弘訓」の解説

足代弘訓

没年:安政3.11.5(1856.12.2)
生年:天明4.11.26(1785.1.6)
江戸後期の国学者。幼名は慶二郎。初め式部,のち権大夫と称する。寛居は号。度会姓。伊勢外宮禰宜足代弘早と幸子の子,伊勢国山田(三重県伊勢市)生まれ。5歳で権禰宜従五位下,弘化4(1847)年には正四位上に叙爵された。父の死により17歳で家督相続。翌享和1(1801)年,賀茂真淵門下の伊勢内宮権禰宜荒木田久老に入門,早くも「神主の大和魂雄々しく一向るに我古を尊びて友の騒ぎにも紛れず,心の底ゆたかに物学びせるは,其名に負ひて世に弘く訓のおやともなりなむ」(荒木田久老「寛居の詞」)と,立志の手ごわさを注目された。文化2(1805)年からは芝山持豊に和歌を,本居大平に国学を学び,6年には本居春庭に入門。以降,神職のかたわら伊勢における本居学派の中心的人物として,多くの門人を抱え,神道,国史,語学など,師説を祖述した著をすこぶる多く書いた。経世の志も深く,天保飢饉中にものした救荒書『おろかおひ』や飢饉に取材した和歌はよく知られる。大塩平八郎とは特に親しく,大塩平八郎の乱(1837)の際に大坂へ召喚され取り調べられた。弘化2(1845)年に自著25冊を禁裏へ献上した。その自筆稿本や貼交帖などが神宮文庫に現存。<参考文献>榊原頼輔『足代弘訓』

(ロバート・キャンベル)

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百科事典マイペディア 「足代弘訓」の意味・わかりやすい解説

足代弘訓【あじろひろのり】

江戸末期の国学者。伊勢外宮(げぐう)の禰宜(ねぎ)の出。国学を本居春庭(もとおりはるにわ),同大平(おおひら)に,歌学を荒木田久老(ひさおゆ)に学び,有職(ゆうそく)にも通ずる。京・江戸に出て塙保己一(はなわほきいち),狩谷【えき】斎(かりやえきさい)らと広く交わり,天保飢饉(ききん)には私財を投じて窮民を救った。古語の考証,類聚(るいじゅう)を得意とし,《度会(わたらい)系図考証》《万葉集類語》など著書は1000巻を越える。→伊勢神宮本居大平国学

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改訂新版 世界大百科事典 「足代弘訓」の意味・わかりやすい解説

足代弘訓 (あじろひろのり)
生没年:1784-1856(天明4-安政3)

江戸末期の国学者。伊勢外宮祠官。通称権太夫,号は寛居(ゆたい)。はじめ荒木田久老に師事,その没後は本居春庭・大平(おおひら)に入門し,鈴屋系の伊勢山田社中の指導者として活躍した。また京や江戸で広く天下の士と交わり,文名を挙げる一方,天保の飢饉に際しては,私財を投げうち民の救恤(きゆうじゆつ)に奔走するなどした。堅実な学風で知られ,《度会系図考証》《万葉集類語》《詞の重浪(しきなみ)》等の考証・類聚・語学に優れた業績をのこした。家集に《海士の囀(あまのさえずり)》がある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足代弘訓」の解説

足代弘訓 あじろ-ひろのり

1785*-1856 江戸時代後期の国学者,神職。
天明4年11月26日生まれ。伊勢神社外宮(げくう)の権禰宜(ごんのねぎ)。荒木田久老(ひさおゆ),本居春庭(もとおり-はるにわ)・大平(おおひら)らにまなぶ。律令,有職(ゆうそく)故実にも通じ,古典の考証にすぐれた。天保(てんぽう)の飢饉(ききん)には私財を投じて救民につとめ,大塩平八郎とも親交があった。安政3年11月5日死去。73歳。通称は権太夫。号は寛居。編著に「日本紀人名部類」,著作に「本職平職考」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足代弘訓」の解説

足代弘訓
あじろひろのり

1784〜1856
江戸後・末期の国学者
伊勢(三重県)の人。代々伊勢外宮の禰宜 (ねぎ) (神職の一つ)。本居春庭 (もとおりはるにわ) ・本居大平・荒木田久老 (ひさおゆ) らに学び,国史・和歌・律令・有職故実 (ゆうそくこじつ) に通じた。大塩平八郎とも親交があり,外交問題を憂えて志士と交わり,門人に尊王思想を鼓吹した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足代弘訓」の意味・わかりやすい解説

足代弘訓
あじろひろのり

[生]天明4(1784).11.26. 伊勢
[没]安政3(1856).11.5. 伊勢
江戸時代後期の国学者。豊受大神宮神官足代弘早の子。本居大平らに国学を学ぶ。大塩平八郎,吉田松陰らの儒学者や幕末の志士と親交があった。考証学を中心とした。主著『続日本紀人名部類』『寛居雑纂』。

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367日誕生日大事典 「足代弘訓」の解説

足代弘訓 (あじろひろのり)

生年月日:1784年11月26日
江戸時代後期の国学者
1856年没

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