杉山和一(読み)スギヤマワイチ

デジタル大辞泉 「杉山和一」の意味・読み・例文・類語

すぎやま‐わいち【杉山和一】

[1613~1694]江戸前期の鍼医はりい伊勢の人。浜松出身ともいう。管鍼かんしん発明杉山流創始。将軍徳川綱吉の病を治して関東総検校となった。

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精選版 日本国語大辞典 「杉山和一」の意味・読み・例文・類語

すぎやま‐わいち【杉山和一】

  1. 江戸初期の鍼(はり)医。名は養慶、信都。伊勢(三重県)の人。幼時盲目になり、入江流の祖入江頼明の子良明の高弟山瀬琢一と良明の子豊明に師事。道をきわめ、ついに管鍼(くだばり)を創案して江戸で杉山流鍼術一派を開いた。将軍綱吉の病いを治して祿を受け、初代江戸総検校となる。著「療治之大概」「選鍼三要集」「医学節要集」など。慶長一五~元祿七年(一六一〇‐九四

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朝日日本歴史人物事典 「杉山和一」の解説

杉山和一

没年元禄7.5.18(1694.6.10)
生年:慶長15(1610)
江戸前期の鍼術家。伊勢国(三重県)津生まれ。父は藤堂藩の家臣杉山重政。幼少のころ伝染病にかかり,失明。青年となり江戸の鍼術家山瀬琢一に入門したが,学も術も進歩せず破門をいい渡される。そこで江ノ島弁財天の祠にこもり,7日間の断食祈願を行った。この結願の日に,帰り道にあった臥牛石につまずいて倒れ,松葉の入った竹の管を拾い,管鍼術のヒントを得たという。管鍼術は管の中に鍼を入れ,この管の上部に出ている鍼頭を示指で叩いて刺入するもので,日本独自のものとなった。のち京都に上り,入江豊明について,入江流の鍼術を学ぶ。江戸に出て開業したところ,門前市をなす盛況を呈した。寛文11(1671)年62歳にして検校となる。72歳のとき,鍼治学問所を設ける。貞享2(1685)年75歳のとき,将軍徳川綱吉の治療を行う。83歳で関東総検校となる。元禄6(1693)年,綱吉の「何かほしいものはないか」との言葉に対して「目がほしい」と答えたところ,本所一つ目に町屋敷をたまわった。翌7年5月18日病の床につき,6月26日に死去したが,遺言により5月18日を命日とした。著書に杉山三部書といわれる『療治の大概集』『選鍼三要集』『医学節用集』がある。『療治の大概集』は入江流の鍼術を,『選鍼三要集』は中国古典の鍼理論を,『医学節用集』は東洋医学の概論を述べている。いずれも明治13(1880)年に出版された。

(高島文一)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「杉山和一」の意味・わかりやすい解説

杉山和一
すぎやまわいち
(?―1694)

江戸前期の鍼(はり)医。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に伊勢(いせ)国(三重県)に生まれる。幼児のころ失明し、江戸に出て検校(けんぎょう)山瀬琢一について鍼術(しんじゅつ)を学び、さらに京都で入江豊明に師事、2家の長所をあわせ、管鍼(くだばり)を考案してこれを実施し名声は大いにあがった。5代将軍徳川綱吉(つなよし)の病気を鍼術で治療し、1692年(元禄5)本所に宅地を与えられ、関東総検校に任ぜられた。幕命で江戸に鍼治講習所を開き、多くの門下生を養成、門下の三島安一(生没年不詳)は幕府医官となり、全国に講堂を開設して杉山流鍼術を広めた。著作に、杉山流三部書としての『節用集』『療治大概集』『選鍼三要集』がある。

[宗田 一]

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改訂新版 世界大百科事典 「杉山和一」の意味・わかりやすい解説

杉山和一 (すぎやまわいち)
生没年:1613?-94(慶長18?-元禄7)

江戸前期の鍼医。伊勢国津藩士の子。幼時に失明,江戸で検校山瀬琢一に,さらに京都で入江豊明につき鍼術を修め,2家の長所を兼ね,管鍼(くだばり)を創案して名声が大いに上がった。1685年(貞享2)5代将軍綱吉の病気を鍼術で治し,92年(元禄5)本所一つ目に宅地を与えられ関東総検校に任ぜられた。また幕命で鍼治講習所を開き,多くの門生を養成,その門の三島安一は職を継いで幕府医官となり,江戸近郊および諸国の45ヵ所に講堂を増設して杉山流鍼術を天下にひろめた。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉山和一」の解説

杉山和一 すぎやま-わいち

1610-1694 江戸時代前期の鍼医(はりい)。
慶長15年生まれ。幼少のころ失明。江戸,京都でまなぶ。管鍼(くだばり)を考案,鍼治(しんじ)講習所をひらき,杉山流鍼術をひろめる。将軍徳川綱吉の病気を治療し,元禄(げんろく)5年関東総検校となった。元禄7年6月26日死去。85歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。初名は養慶。著作に「選鍼三要集」「節要集」「療治之大概」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「杉山和一」の意味・わかりやすい解説

杉山和一
すぎやまわいち

[生]慶長15(1610).伊勢/浜松/大和
[没]元禄7(1694).5.18. 江戸
江戸時代前期の鍼医。名は信一。幼時に失明した。初め江戸で検校山瀬琢一に鍼術を学び,のちに京都で入江豊明に学ぶ。この間,管鍼を発明して鍼術を改良し,杉山流の鍼術を創始した。貞享2 (1685) 年将軍徳川綱吉の奥医師になり,元禄5 (92) 年盲人として最高位の総検校と,医官として最高位の権大僧都に任じられた。

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世界大百科事典(旧版)内の杉山和一の言及

【本所】より

…75年には万古友次郎の江戸万古も小梅村で窯が開かれている。本所に居住した著名な人物としては,1692年(元禄5)に奥医師関東総検校となった杉山和一がある。翌年には本所一ッ目に2700坪の宅地を拝領した。…

【盲人】より


[近世]
 近世に入り平曲に代わって浄瑠璃節を語りはじめた琵琶法師はやがて琵琶を新たに渡来した三味線・箏に持ち替え,三都を中心に開花した町人文化の中で旺盛な創作活動を展開し,上方の三味線組歌,生田流(いくたりゆう)箏曲や江戸の山田流箏曲等を生み出した。また,将軍徳川綱吉の侍医杉山和一(わいち)によって盲人に医業への道がひらかれ,近世後期にははり,あんまが芸能に代わって盲人の主要な職業となるまでに普及した。江戸では大名,武家を相手とする座頭金(ざとうがね)(高利貸)が盛行して巨富を積む盲人も出現し,学問の世界では《群書類従》を編纂した塙保己一(はなわほきいち)が頭角を現した。…

※「杉山和一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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